潰れたアリになった日。

たぶん、犯罪者にとって至上の成果物とは、その犯罪によって得られた金品などではない。犯罪を成し遂げることによる、もしくはその最中に得られる達成感、恍惚感、快感といったものではないか。


たとえ何か盗んだものが手元に残ったとして、それが蓄積していったとしても、それを眺めて満足するのではない。次の快感をまた得ようとするのだと思う。快感は手元に残らないから、繰り返す。犯罪者にとって、物理的な成果物はあまり重要でないのかもしれない。もちろん、本当に物や金が欲しくてやる者もいるだろうけど、その場合でも、犯行にともなって大なり小なりの快感を得ていることを想像する。


何かの行為にともなう見返りとして、物理的・金銭的な成果を重視しないという価値観は、法を守って生活している多くの人が持つものだろう。僕だって紛れもなくその一人だ。物理的・金銭的にすぐさま何が報われるでもないようなおこないを、日々繰り返している。そのことによって僕は、自分が変化することに価値を見出している。その手段が、他人の(あくまで「人間」が基準である)所持する有価物をおびやかしたり、他人の価値の追及行為そのものを侵害したりすることである人たちが、犯罪者と呼ばれる。つまりはこの人たちも、犯行によって自分に起きる変化そのものに価値を見出している場合があるのである。


僕は、自分の有価物や、価値の追及行為を侵害されたくない。だから、他人のそれをおびやかさないように気をつけているつもりだ。ただ、何が「有価物」であったり、「価値の追及行為」であったりするかという点について、それぞれ認識のズレがあったりする。法律はもちろんそういう場合の基準になるが、必ずしも完璧ではない。そこに各々が「考える」余地があるし、その余地に普遍的な価値があると思う。


個人にそうした価値観の「著しいズレ」を付してしまう原因が、社会的なものだとしたら、みんなで考えないといけない。「犯罪者」が報道されると、同時に何かと、そのバックボーンに言及される。職場ではどんな様子だったのか、家庭ではどうだったのか。学齢期にはどう過ごしたのかといったことまで、遡って取り上げられたりもしている。


そうした報道の数々に、違和感を覚えることもある。偏平な価値観のみに照らし合わせて、犯罪者を自分たちと隔絶し、異常だとレッテルを貼ることに躍起になっているように見えなくもない。


もちろん、犯罪は絶対いけない。ただ、考えるためには、身をもって知らないといけないこともある。どの程度のことが、他の何に相当するのかということを、誰しもが小さな規模から学んでいるはずだ。子どものときに、蟻を潰したり、友達の所有物を横取りしたりした経験のある人は多いだろう。蟻は潰れてもよろしいとは言えないし、子どもの横取りは仕方がないと、一概にも言えない。


どんなことも、取り返しがつかない。取り返しがつくことなんて、ひとつもないのだ。日本の法律を守って、正しく生きている気になっているかもしれないが、遠く離れた国の人たちの暮らしや、その資源を脅かしてよいというわけではない。身近で大切に思っている人からの搾取はダメで、名前も知らない他人からならOKだなんてのは、おかしい。自分にとっては他人でも、誰かにとっての想い人だ。


つくづく、情けのない世界だと思う。情けは人を救わない。自分にも、かけてもらえないものと思うべきだ。犯罪者は、情けによって犯行対象を選んだりしないだろう。