喫する気 〜ココロの距離は、モノの距離〜

なるべく偏見を持たずに、平等にこの世と接したいものだと常々思うのです。

しかしながらどうしてか、何か困難なものごとだとか、やっかいな人が現れたりしたとき、「(ウッ…)」と、体が緊張し、自分が生理的な嫌悪を示しているのを感じることがあります。

そんなとき、自分の体が固まっているので、柔軟に考えたり行動することができなくなっており、ますます困難でやっかいな状況に翻弄されてしまいます。

そんな時の救いはないものかと、日々情報を漁ったり、考えたりします。その場では答えが見つかったような気になったりすることもあるのですが、いざ差し迫った状況となると、必ずや、また体は固まり、答えに至ったはずの論理もどこかへ行ってしまいます。

「気持ち」を「気持ち」で変えるということは、難しいのです。無謀と言ってもいいでしょう。

そこで最近、僕が何が困りごとややっかいな状況に直面したとき、「これならできる!」と思いつつあるたったひとつの答えが、これです。

「物理的に距離をおく」

やばい、手玉にとられる…気圧される…体が固まって、緊張してきた…。そんな兆候を少しでも感じ取ったら、とにかくまず一歩下がって、離れてみる。これは心理的なことではなくて、自分を威圧する対象から、本当に物理的に少し離れてみることを指しています。「心理的に距離を置く」は、物理的に目の前に原因となる事象がある状況では、難しいのです。いえ、おそらく、物理的に目の前にあるわけではないとしても、難しい。

そうしたことから、「外の空気を吸ってくる」は、非常に有効といえます。一歩下がる、よりはハードルが上がりますから、許される状況は限られるかもしれません。ですが、これが許されないケースというのは、それこそ外の空気を吸って考えてみると、実際のところそう多くはないように思います。

困難ややっかいごとに着目して話を進めましたが、「好き過ぎて困る」場合にも、これが有効なように思います。好き過ぎると、盲目的になりがちです。好意の度合いの強調表現としではなく、あとで本当に困ったことになりかねませんから…。