キッチンにて 〜素朴の塩梅〜

野菜がある。


そのままで、おいしい。


ちょっと油をたらし、砂糖をふって、塩をかけて、レモン汁をしぼったら、なおさらいい。


スパイスやハーブなんか添えたら、それだけで格別になったような気にもなる。しかし、それらはあくまで脇役だ。野菜がおいしいのである。


キッチンに立って、なにか作ったり、やっている。なにか作ったり、やったりするためにできているから、それは快適だ。これがトイレだったらそうはいかないだろう。なにか作ったり、やったりするためにできていないからだ。


かわりにといっちゃあアレだけど、この逆もいけない。これ以上は言うまい。



僕らには、舌がある。


これがあるおかげで、野菜やら何やらをおいしいと思える。


いや、舌だけじゃない。


人参だとか硬いのもゴリゴリと、砕きつぶす歯があって、それを押し動かしたり流しやる舌と機能しあって、その一連の体験がおいしいと思う。


舌や歯だけじゃない。


自分の目の前に置かれた野菜が反射する光を認識する、目。


漂う香りをキャッチする、鼻。


野菜を噛み潰す音が骨に響き、耳に届く。


野菜がおいしいのは、僕らがおいしいと思うのにじゅうぶんなだけの能力をそなえているからだ。


なにかに感動するのも、感動した方にその能力があるからだ。


感動のきっかけとなったものには、感動させる機能があるわけだ。


本来多くのものにその機能はあって、素朴なままであるほどに良い。


感動する能力に不安があるからと、砂糖やら塩やらを山盛りにするシェフはいないだろう。少なくとも、僕は出会ったことがない。


ちょっとやり過ぎてしまう、はあるかもしれない。


その程度というのは、けっこう繊細なものであったりする。


素朴は、誰しもに平等だ。


そして、壊れやすく、はかないものなのである。