トリセツ・箱なし 〜僕らの中身〜

先日、卒業生たちが集まるちょっとした機会があり、久しぶりに母校の大学に行きました。


実際その日は、僕は門外漢で、用事があるのは妻の方でした。(妻と僕は、同じ大学の同級生だったのです。)妻がいない間、僕は1歳児の息子と1日過ごすことになるので、散歩がてら一緒に出てきたのです。


同級生ばかりが集まるわけでもない催しで、その多くが後輩だったのですが、いくつか見知った顔がありました。中には声をかけてくれるんだけれども思い出せない顔もあり、挨拶を返したあとで「誰だったけなぁ」なんて思うこともありました。


自分の外側に、自分の物語があったりします。自分自身が覚えとどめているかどうかは、別として。


一緒に過ごした瞬間があったとしても、思い思いのまるで違う物語を持っていたり、片側の人に至っては忘れていたりもします。


久しぶりの人に会うことをきっかけに、そうした「物語」の存在が浮き彫りになったりします。「あの時、あんなことがあったよね」「ええ、そうだったっけ?」というような具合に


毎日顔を突き合わせている妻との間にも、そうした同じ原作(エピソード)をもとにした異なる物語がたくさんあって、頻繁に会っているぶん、それらを長い時間同居させているわけなのです。その差異の大きさと、一緒にいる時間の長さのことを思うと、ふとなんとも言えない、こそばゆい気持ちになります。


「物語」をつくって、誰もが客観的に触れられる状態にしておく。つくる「物語」は、実際に自分が持っているものをもとにしてもいいし、どこかからとってきたものでもかまわない。そうして作品のようなものにしておくことで、「物語」の息は、寿命に限りのある僕らよりも、少しばかり長くなるかもしれません。


つくった「物語」は、つくった人の手を離れます。もはやその人自身と切り離された、別の新しい存在だといえます。自分自身で直接生み出すことができるのは生きている間だけですが、そうして生み出していったものたちが、孫、ひ孫と新たな存在を生み出していくかもしれません。


生きて、残す手段を考える。極端な話、考えなくたって、残るものは、残る。ただただ、僕らは、その中身です。