セッションのミルフィーユ

書くことで、整理して伝えることができます。

誰かに会ったとき、その場が過ぎてから「あの時、こんな風に言えたら良かった」というようなことを思いつきます。思いついたところで、その場は過ぎてしまっているので、心の中で唱えるだけです。

また、声をかけることのできる距離が保たれている場合でも、会話の「間(ま)」が開き過ぎてしまうと、もう言い出せなくなって、結局心の中で処理します。良きタイミングで発想できなかった自分の反射神経の鈍さが、うらめしく思えたりします。

その点、書くことは「間(ま)」に支配されることはありません。発信するまでに時間的期限がある場合もあるでしょうけれど、その期限内で推敲することはできます。少し間をおいてから思いついた文句を、好きなだけ入れ込むことも可能です。

ここでふと思うのは、文にも「間」があるのではないか、ということです。「文」というか、「書くこと」、その行為といいますか…

前に、一度書いた文を消してしまったことがあります。小1時間で1000文字程度書いたようなものだったのですが、インターネットブラウザ上でエディットしていた状況で、ちょっとアプリを中断して戻ってきたら、作成していたテキストがもうどこにもなくなってしまっていたのです。厳密にはコンピュータやネット上のどこかにあったのかもしれませんが、独力で探せる場所にはありませんでした。それ以来、書きながら一呼吸置くようなタイミングで、小まめに「コピー」コマンドを使用して保険をかけるようになりました。

話を戻しますと、もうどこにも見当たらなくなった文章を諦めて、同じテーマで、記憶を頼りになるべく同じような質のものの再現を試みました。要は、書き直しました。しかし、出来上がるものは全然前のものと違うのです。そういう意味では、「出来上がる」ことはもう2度とないといいますか、文章・書く行為もナマモノで、全く同じパフォーマンスは2度と現れない、雲の形のようなもの…と思うようになりました。

このことは、音楽の生演奏にも同じことがいえます。僕自身、音楽が好きで、ステージに上がって演奏したりする機会があるのですが、常々思い続けていることだったりします。

くらしの中にも、同じことがいえそうです。

あの時、あのシチュエーションで食べた料理が最高だった!といった経験があって、その再来を望み、期待したりすることがあるのですが、その経験をもう一度味わうことは2度とかないません。似通った状況を再現しようとしても、全然違った体験になるのです。期待値が高かった分だけ、劣化したような気さえするのですが、そもそも同じ体験の再来を期待すること自体が愚かというものです。

誰かと過ごした時間、出会った機会、何かを書きしたためる行為も、それぞれ「間(ま)」の流れ方・スピードこそ違えど、すべてがたったひとつの貴重な体験であり、再来のないセッションなのです。

積み重ね、熟練し、それでも同じ機会は2度とない。

だからまた、セッションを重ねます。