自己's

ライブハウスなんかに出演して、自分の作った曲を演奏したりします。「この曲はこれこれこういう経緯で…」なんて、あることないこと、その曲について話(MC)をしたりすることもあります。その際、本当にそういう経緯で作曲したかどうかは別にして、語りやすい語り口(「あることないこと」の、「ないこと」といえましょうか)が選ばれやすかったりします。正確には「選ぶ」というよりは、「端的な例」をその場でつくって示す、というのに近いかもしれません。とにかく、その曲を演奏する前のお膳立てであって、調理を済ませたあとの盛り付けや配膳みたいなものなのです。盛り付ける器や盛り付け方を決めてから料理をつくることも可能でしょうけれど、できたものにしたがって選ぶ、判断するという順序が、僕のような凡庸な生活人にとっての常だったりします。

並列してよい例かはわかりませんけれど、新しく発見・開発される科学技術の「役立て方」をあとから考える、みたいなことにも似ています。特定の問題を解決するために生まれたのではないけれど、さまざまなことに応用される技術があることと思います。何か、謎を解くとか、証明をする、発見をする、新しいものをつくるといった結果の「応用」は、二次的なものなのでしょう。

考える人、発見する人というのは、その結果がそうした広がりを持ちうることを、無意識下で予感するのでしょうか。あらゆることにつながるような普遍的で根本的なことだからこそ、なんとしてでも考えよう、考え続けようとする…知的好奇心・探究心といったものほど、ちゃっかりした現実主義者が備えている資質なのかもしれません。

種としての「利己」、共同体としての「利己」ってあるんだろうか。自・他の境界線を、活発に動かして考えてみる。