今日は、どう?

大きな地震があったあと、東北に行ったことがほとんどありません。仙台なら一度ありますが、それくらいです。被害や復興の様子は、テレビや何かの資料で見たものばかりです。


この7年で何をしたかといえば、最初の年にわずかばかりの義援金を送ったことくらいでしょうか。社会的に大きな動きにもなったので、チャリティにつながる催しに行ったとか、何かを買ったとか、間接的な形で関わることはもちろんしてきたと思います。


現地に行ったとか、自分で何か企画して行動したとかはほとんどないのですが、それについて考えたりする機会はもちろんたくさんありました。「東日本」というくらいですから、いろんな影響が日本の東側、いえ、日本じゅう、さらには世界に届くまであったと思います。僕個人にだって影響がないわけはありません。


自分の見たり聞いたり体験したことしか、自分は知らない。なので、あのときどうしていたかとかそういうことはいくらでも思い出すことができます。与えられた時間は一緒ですから、自分にとっての7年と同じだけ、あらゆる人の7年があったはずです。この7年で、自分は何が変わっただろうか?いろんなものごとへのアプローチ、スタンス、取り組み方、知識変わったことがいろいろあるようにも思えるし、根本的には何も変わっていないようにも思えます。


被災地に、新しい家や建物、機能を持った施設ができたりして、戻ってくる人がいたり、逆に出て行く人もいるでしょう。僕は、結婚して引っ越したり、子供ができたりということがありました。それと震災とがなんの関係があるのか、表面的にはぜんぜんわからないかもしれません。しかし、いろんな形で生活の中で影響が立ち現れているのは間違いないでしょう。家の中で水や電気やガスが使えることと、震災のことはとても密接な関係があるのは明らかです。


つくづく、感情は非合理的なものだと思います。自分を観察してもそうだし、身のまわりの人を見てもそうだし、脳や心理の本を読んだりしてもそう思います。感情と、いろんな距離感を持った人が混在していい。感情には、個々のものもあるでしょうし、社会全体のものを合算した集合的なものもあるでしょう。7年間の、震災という事象に抱く感情との距離感、その移ろいの先に、いまがあります。


近すぎると気付かないことだとか、遠すぎても見えないことだとか。いろいろあるから、人が動くのでしょう。