口出しされるバカになる

僕は自分の手で何から何までやって音楽をつくる活動をしているのですが、「何から何まで自分の手でやる」ことが、自分の活動の閉鎖性を強めている原因でもあります。それでもすべてを自分の手でやることを選び続けてきたのは、すべての過程において「自分の至らなさ」と直面し、それを覆すための努力、訓練、試行錯誤を自分に課すことができるからです。目的がそもそも、自分の内側に向かっている活動なのです。


これらの努力や試行錯誤が、あわよくば他人にとっても価値のあるものになればなぁ、という期待がずっと自分を悩ませて来ました。でもそのためには、どうしても少なからず「自分の内側に向かう活動」とは別の方向に逸れる形で時間や労力を遣わなければなりません。誰かのためになるかもしれないし、自分のためにもなるかもしれない。そんな活動に力を注ぐ人は、この世のあらゆる分野に数多いるかと思いますが、間違いなく自分のためにしかならないような活動に力を割いてくれるのは、自分自身しかいないと思うのです。それを何より重んじてきたのが、これまでの僕のような気がします。


これも僕の思考が凝り固まっているせいで、そう思い込んでいるだけかもしれません。僕が「自分の内側に向かう活動」と思い込んでいるものは、実はろくに自分とも向き合えていない逃避行動なのかもしれない。「誰にも侵すことのできない自由」かのように、美化して自分を惑わし続けているだけかもしれない。自分が本当にがんばってやったことを、たくさんの人、いえ、そこまででなくても、少なくとも確かな一定数の人や動物、あらゆるモノゴトとつながって喜ぶことができたら、それこそが真に「自分の内側」と向き合う行為といえるのかもしれません。


すごく雑な言い方をあえてしますけれど、世の中には「あらゆる人に口を出されるバカ」と、「誰にも口を出されないバカ」がいるようです。そして、本当の意味で救いようのない「バカ」は、後者なのかもしれません。「お前、もっとこうしなさいよ」と言ってもらえて、「うわぁ〜、なんで気付かなかったんだろう。やってみます!」といって、新しい努力やその方法に次々取り組める方が、いろんな人を巻き込んで幸せになれる確率が高そうに思えます。現状、「誰にも口を出してもらえないバカ」に近い僕は、まず「口出ししてもらえるバカ」を目指すべきなのでしょう。自分と向き合おうなんてのは、そこから始まることなのではないかと思い直します。