アプローチ

ことばというのは本当に難しいなぁとつくづく思います。


自分の思ったことを書いているつもりのようで、それぞれの読み手に伝わることはまったくその通りのものではありません。


逆に、僕が受け取ったいかなる「ことば・文章」も、発した人が「わかっていること」をわざわざ「わからない」に再変換して受け取ってしまっている可能性があるということです。


単純に、僕の「ことば」における技術や読解力、知識や語彙力のなさによるものなのかもしれませんが


自分の思考の癖、それも特に「ことば」を用いた思考の「癖」の存在を思い知ります。


僕は、あえて表面的なことを書いたり現したりすることで、触れている以外の本質的なことを浮き上がらせたり、匂わせたりしようと試みる癖があるようです。


シャイな性格のせいかもしれません。


そのアプローチが、見る人によっては無駄の多い遠回りだったり、逃避だとか自己欺瞞に受け取られかねないようです。


好きな人に「好き」と伝えるために、「好き」と言えない。例えばの話です。


実際、「好き」と思い込んでいるだけで、ただ単刀直入に「好き」と言えるほどには「好き」ではないのかもしれませんし、自分にとっての「好き」とは、単刀直入に「好き」というような「好き」とは違うものなのかもしれません。だとしたら、なんら自分を欺いていることなどありませんし、単刀直入に「好き」と言って成功したり失敗したりしようが、静観を重んじるアプローチを選択して現状を著しく変えないようにしようが、自分の自由だと思います。単刀直入なアプローチを選んで学ぶことと、静観を重んじて学ぶこと、その両者の間に優劣はなく(あるいは自分だけのもので)、自分で選び取ることが重要なのではないかと思うのです。そこで、どちらかを選ぶ方がもう一方に対して優位に立ったりするようなことはないはずです。そうした振る舞いをなるべく慎むのが、僕の納得する生き方のスタンスなのであり、ときとして思考の「癖」として自覚されうるようなのです。


ことばを用いない理解、認知がある。


それは、ことばにすることによって、失われたり、形が変わってしまうこともある。


いつぞやのモノ書きの誰かが、「I love you」を「月がきれいですね」と訳したそうな。


個人的には、名訳だと思っています。