夢見る森

「木」を見る。


その「木」のためになることを考える。


まわりから養分を持ってきて、その「木」に与える。


養分を持っていかれたどこかの別の「木」は、枯れてしまう。



「林」を見る。


その「林」のためになることを考える。


「木」と「木」が近すぎるなぁと、間引く「木」と残す「木」を選別してやる。間引いた「木」は、割り箸か何かにでも利用して、なるべく無駄のないようにしてやろう、と、人が車に積んで持ち去っていく。



「森」を見る。


その「森」のためになることを考える。


人が利用するためにつくられたわけではない、そこにある「森」。


一本一本が養分を奪い合い、良好な日当たりを勝ち取ろうとせめぎあい、枯れていった弱い木が何本あったかわからない。


結果としていまの「森」がそこにある。


「森」の中にはいろいろ棲んでいて、一歩足を踏み入れた僕もまた、ひとしずくの養分に同じ。人間の頭を一撃で吹き飛ばせるような腕力を持った熊もいるし、毒の牙で獲物や敵に集団で襲いかかる蟻もいる。その中の何匹かは、足元で僕に踏み潰されたかもしれない。


獲物に集る蟻と、地球に集る人間がふと重なる。


食い尽くしてしまったら、僕らはどこに立てば良いのだろう。


足元がぐらりとなったときに気づいたのでは、もう遅い。


では、地球を食わねば何を食えばいいのか。


隣の木を枯らさずに、あの「木」は立っているのだろうか。


そもそも自分の立場を危うくするほどに宿主を食い尽くす能力なんてあるのか。それ自体が思い上がりもはなはだしい。


地球だって、僕らを「食って」いるかもしれない。


地球が「木」なら、月や火星を含めて「林」と見るか。


銀河は「森」か。


僕のおなかの中の胃袋を「木」と見れば、おとなりの腸なんかも「木」のひとつで、僕自身が「林」か「森」か。


立って歩く「森」もあれば、服を着て電話をかける「森」もある。


電話を受けてピザを焼く「森」もあれば、「森」に向けてピストルを撃ち放つ「森」もある。



未来の「森」を宿す「森」。


病院で産声を上げる、小さな「森」。


「森」に抱かれて、眠る「森」。


夢を見る、「森」。



木々が、ざわめいた。