ダイコンニンジン

生まれながらにして「善」であるとか「悪」であるとか言い合うには、共通する「善悪」の基準がないと話にならないように思えます。

そもそも何が「善」で何が「悪」なのか?という話になりはしないでしょうか。
生まれながらに「善」か「悪」かという議題で始まっても、話の焦点は「善悪とは何か」というところに行き着きやしないでしょうか。


「善悪」そのものは、目に見えません。実態がない、観念的なものでしょう。ありがちな例えですが、電車で他人に席を譲る光景だったり、反対に銀行や宝飾店で金品を奪う犯罪行為だったりは、「善」や「悪」の具体化した様子として、目に見えるかもしれません。


人参ふうの野菜を渡されて、これは人参か大根か、という点で迷う人はあまりいないように思えます。人参に実体があるからでしょう。稀なケースかと思いますが、人参と大根の両方の特徴を兼ね備えた、中間的な存在があったとしたら、判断に迷うかもしれません。


形があって、それに名前がつくのが順番なのかなと思います。

そう思うと、もともと形のない「善」や「悪」が、いきなり形のない状態のまま言葉として生まれてくるとは、考えにくいのです。

やはり、なにかしらの行為が先にあり、それらを区別して認識するために、あとから「善」とか「悪」とか名前がつく。

「形」や「行為」とは、つまり「実体」のようなものです。「実態」ともいえるでしょうか。


ふと、こんなふうに言ってみたくなります。

「人は生まれながらにして、善でもあるし悪でもある」


…破綻しているでしょうか。

それを考え合うのが、議論なのでしょう。

巡り巡ったようなふりをして、最終的に命題から逃避する…そんな傾向が自分にはあるように思えてきます。

ただ、「当たって砕けろ」なんて常套句がありますけれど、砕けるなら当たっちゃいけないというのが僕の持論です。(…いまのところ、ですが)

その証拠に、ここまで生きてこられたのかな、なんて思います。

逃げもしないし、当たって砕けもしない。

「対峙」する姿勢に、前向きな「生」を感じます。

後ろ向きでもなんでもいいから、まずは「生」きなきゃなりません。

斜めを向いたり横を向いたり、前を向くために通らなきゃならない過程もあるかと思います。

そのタイミングだって、人それぞれでしょう。


自分にとっての、「前」はどっちだ?