ぼくになにが書かれている?(きみのことはこう読める)

僕はいま31歳ですが、「独断と偏見によれば」という言い方がされていたことが昔あったような気がします。僕自身も1度や2度は使っているかもしれません。


「独断と偏見による」という前置きは、「他の人ならどう判断するか」や「まんべんなく、偏らない見方で」といったことを考えないで言っていますよ、という宣言に聞こえなくもありません。


そうした「もの言い」といいますか「言い草」といいますか、ツールとしてのことばづかいにも、流行り廃りが見られたりします。


流行に乗る人の多くは、深い考えがあって乗っているわけではないのでしょう。「ことば」なんかは特に、使うにあたってお金を支払ったり、使用後に手入れや保守管理といった手間を割くわけでもありませんから、「よく耳にする」「みんなが言っている」という雰囲気だけで簡単に使えてしまいます。その「雰囲気」を察知するのもまあ、ひところ流行りました「空気を読む」ちからの一部といえなくもなさそうですが


(ところで本質的には「ことば」だって、使うにあたってお金や手間暇をかけてしかるべきものなのかもしれません。)


空気を読む能力があって、その先に「読む・読まない」の判断があるべきだと仮定する。


「読まない」という選択までは、「読めない(読む能力がない)」となんら違いがないかのように見えますが、そこから先が明らかに違うのでしょう。「読まなかった」ことによって、必ず時間・空間・労力・・・といったなんらかの「空き」的要素が生じます。「遊び」のような自由なスペースといいますか、「余白」といいますかそこでなにをするかの差があらわれてくるように思うのです。


ここまで述べておいてなんですが、実のところ「読まない」ではなく「読めない」の場合は、この「余白」が生じることはないのかもしれません。「読む」があって相対的に「読まない」が生まれるわけですから、はじめから「読めない」ではそもそも、『「読む」という判断をしていた場合に埋まるはずだった余白』さえもないんじゃないかと


一方で「やらない」と「やれない」にはなんら違いがないというのも、納得するところでありましてというのも、僕は「やれる能力がある」けども「やらない」のだと思い込む、自分の能力を見誤ることが少なからずあるようです。結果・成果を出していない時点では、その能力は仮にあったとしても、ないに等しい。客観的に存在を証明しうるものが観察できないことには、「ある」とはみなされないでしょう。現在の自分をとらえるときに、未来の自分に対する願望が混じってしまうのは危険なことです。今できていないことはあくまで課題であって、未来にその能力が「確固たる成果の観察」によって確認できるように、「自分を読んで」いくべきなのかもしれません。



読むべきものは「空気」なんかじゃなく、「自分」や「他者」そのもの、ですかね。