シマリスの冬眠

なんでもかんでも整理整頓、つねに取捨選択をして有効なスペースを広く保つ。


「断捨離」という言葉がもてはやされた時期がありましたね。


僕はどちらかというと、この方針と少し距離を置いたスタンスでいます。


どこになにがあるかだいたい把握しているし、頻繁に動き回るスペースさえすっきりしていれば、なんでもかんでも処分する必要はないと思っています。


むしろ、忘れずにいられる、というか一時的に意識の表層からは姿を消したとしても、なにか変わったことやふとした思いつきがあったときに思い出す可能性のあるようなものは、日常いそがしく動き回るスペースとは少し離れたところにでもしまっておけばいいと考えています。


変わり映えしない日々のルーティンがある。


毎日、定まった職場に、決まった時間に出ていって、だいたい似たような時間に帰ってくる。それからはずせないというか、重んじている自分や家族のことをひととおりこなし、食事したり入浴したり、最低限の身の回りのことをやって、眠くなって寝てしまう。


そんなことが多いですから、決まって動き回るために必要なスペースって、そんなに広くはないのです。


とはいえども、とある1週間を取り出したら些細な変化さえないとしても、1ヶ月、1年と範囲を広げてみれば、やはり取るに足らない程度のことかもしれないにせよ、なにかしらの変化や気づきや思いつきがあるものです。


そうしたときに、日常ひんぱんに動き回るスペースとは少し離れたところにしまっておいたものごとたちが、たとえしまい込まれて何年経っていようと、ふと意識の表層に浮かび上がることがあるのです。


あ、ここにきて、あのときのアレだよ。


確かあのあたりにしまっておいた。


きっちりしまっていたならまだ良くて、投げ出したままだったかもしれない。


でも、自分はちゃんとそのことを覚えていて、普段は滅多に触りもしないあたりを、なにやらごそごそとかき立てる。


あった、あったよ。


ありがとう、あのときの自分。


これまでの自分。


しまっておいてくれて。


とっておいてくれて。



そんなこんなの、些細で取るに足らないような、ちょっとしたものの動き、こころの動きが、同様に取るに足らないような、ちいさなちいさな物語になる。だれがみてもがらくたにしかみえないとしても、僕はそれに価値を感じるのだから、しまっておいたっていいじゃない。


他人の迷惑にならない範囲で、というのが条件付きではありますが、ね。


そんなわけで、僕は「断捨離」といった言葉で短絡的に表されがちな方針に対して、いくらかの距離を置いたスタンスでいるのです。


いや、厳密には違うんだよ、というか、全然違う!


のかもしれません。


ほんとうの意味での「断捨離」を心得ているひとに、おこられちゃうかな。


そんな駄文のひとつをまた、


心のどこかにしまっておく朝。