「いまは、苦しい」を受け入れる

僕は歌をつくるのですが、やはりもととなるアイディアが浮かぶ瞬間というのがあります。


からだや意識が張り詰めている時間というのがあるように思いますが、それが緩んだ瞬間、緊張と緊張の切れ目のような瞬間に、アイディアがふっと訪れることがあるようです。ほんとうに自分はその瞬間まっしろになっていて、「あ、いたの」「来たのね」みたいな感じで、気付くとそばに立っているのがアイディアだったりします。もちろんそこから、「おおっ」「おお?、おお!」とおもしろくなっていって、からだも意識もぐるぐるとめぐりはじめるので、アイディアが浮かんでそこから先はすごくうれしいし、ほくほくすーっと爽快感と高揚感が同時に訪れているような状態になったりするわけなのですが、ほんとうにその「もと」がやってくる瞬間というのは、あまりに何気なくて淡白な「素」の状態の自分であるように思えるのです。


アイディアはいくらでもほしいので、そうした瞬間の内外的な状況を分析し、必要なはずのアイディアが浮かばないときに、作為的といいますか、意図的に自分の状態・環境をメイクアップすることで、アイディアが浮かぶようにもっていけないだろうかと常々思うのですが、なかなかこれがむずかしいものです。


アイディアが浮かぶときの不思議、神秘めいた感覚が、こんなことはもう二度とないかもしれないと、のちの自分を不安がらせるのです。


緊張はからだと意識のまっとうな反応であって、次に向かっていくために必要な過程なんだということを、最近よく自分に言い聞かせています。なにかのサイトの記事で読んだことでもあるし、音楽をやっている知人方々から聞き及び、自分なりに解釈していることでもあります。


アイディアがやってこなくて焦ったり、自分はもう枯れたんじゃないかという思いが支配的になる時間が継続したとしても、それは次なるアイディアに向かっているまっとうな状態、必要な過程なのだととらえることができそうです。


「アイディアはいくらでもほしい」なんて、よくばって焦って、自分の現状の足りなさを嘆きますが、そんな自分をも受け入れることで至ることのできる「次のステップ」も、あるんじゃないかと思っています。