やわらかい姿勢

「だれでもトイレ」なるトイレが増えています。


増えているというか、少なくとも目立つようになってきていると思います。


だれでもつかえる、利用できるという観点をもって、いろんなものがつくられるようになりつつあるようです。手に持って使うような道具もそうだし、建物などの居場所もそうです。


手すりやスロープは公共の場所では高頻度で目にするようになりました。古い建物はまだまだですが。個人宅や小さな飲食店などは、どうでしょう。住む人が必要なければ、スロープまではなかなか作らないでしょう。飲食店も、狭くても利用できる人だけが客層となっているところが多いのではないでしょうか。なんらかのハンディキャップのある人がそういう場所を訪れようとすると、困難が多いかもしれません。でも、友達の家に行きたいとか、話に聞いた店が気になるとか、ハンディキャップを抱えて生きていてもそういうことがいくらでもあるんじゃないかと想像します。でも困難が多そうだから、不可能ではないかもしれなくても敬遠してしまい、行けそうな場所だけを選んで生活するそんな現状が、ひょっとしたらあるかもしれません。


「だれでも」について、公のハード的なことがととのい始めた側面もあるかとは思いますが、「いつでも」となるとさらにハードルが上がります。


災害が起きたときなんかがそうです。いつもは機能していたことが機能しなくなり、「だれでも」「いつでも」がかなっていたこと、それも生活に欠かせない基本的なことが立ちゆかないような状況が、ことに地震の起きるこの国ではありえるかと思います。


ハード的な備えに「だれでも」「いつでも」のことを任せっきりにしたまま、考え方や価値観の面でそれらがついてこないことには、災害が起きてそれらのハードつかえなくなったとき、なんにもなくなってしまいます。


災害時にうまく共生関係が築けている避難所は、平常時から地域で過ごす人たちのコミュニケーションがとれている場合が多いそうです。


あたりまえだったことは、前提がくつがえれば簡単に反転します。目が見えるとか、歩けるとかは、多くの人が持つ機能かもしれません。多くの人が前提にしているであろうことをくつがえしてみると、それだけ多くの人が未知の世界を体験したり、考えたりする道がひらけるきっかけになるかもしれません。


いつでも、だれでも、どこでも通用する法則などはない。その瞬間その瞬間の世界に寄り添える柔軟な姿勢を、持ち続けていたい。