「小」話

どうでもいい話をしよう。


最近、小便器を使えるようなった。


女性のみなさまには馴染みがないかもしれない。


立って用をたす、個室化されてない壁面に設けられた「小専用」のアレである。「シャア専用」とかだったらちょっとかっこいいような気もするけれど、ガンダムはこれといって関係ないし、実のところ「シャア」がなんなのかも僕にはよくわからない。はなはだどうでもいいことである。


公共のトイレのトイレットペーパーを信用してはならない。


たまに、床を転がり落ちた事実を経由してペーポーホルダーに納まっているやつがいる。


ひどいと地面の水分だれの「小」がこぼれたものかもわからないを吸収してふやけた形跡が確認できるものもなかにはある。


女性にはあまり馴染みがないかと思うが、男性は大便器に「立って放尿」可能なのだ。大便器の「上に」立つわけではない。立とうと思えば立てなくもないが、体重次第では便座をこわすかもしれない。重ねてどうでもいい話である。


僕はずっと長いこと、小でも大でもかならず大便器を選んで用を足してきた。理由はふたつある。ひとつは、個室であること。もうひとつは、トイレットペーパーが使えることだ。


このうち、「トイレットペーパーが使える」ことが自分にとって必須でなくなってきた。「小」の場合に限った話である。「大」に紙を必要としない境地には僕はまだまだ届いていない。届く予定もこれといってない。


女性にはあまり馴染みのないことだと思うが、小便器を使うときの男性の多くは、用足しのおわりにぶるぶるっと竿をふり、ズボンの中に納めている。ながいこと僕にはそれが受け入れられなかった。それ、尿道の先端に、すなわちおちんちんの先っちょに、微量のおしっこ絶対残ってるよね?僕はかならずトイレットペーパーを用いて水分を吸収させ、からっからの状態にしてからの納竿を心がけてきた。


それがどうだろう。そのトイレットペーパーが信用ならないにも関わらず、これまで平気で愛用し続けてきたことが不思議でならない。ヘタに床を転がり落ちたかもしれないトイレットペーパーよりは、自分の体液であるおしっこの方が格段にキレイなのではないかと、最近思うようになった。もちろん、水分を吸収したり、明らかに床を転がり落ちた形跡が認められない場合に限った話である。そんな不埒なやつとは、これまでだって仲良くした覚えはない。どうでもいいのだが、おしっこがキレイというのも少し違うかもしれない。「信用できる」と言い換えよう。この世で一番信用できるおしっこは、自分のおしっこだ。これは間違いないだろう。



年をとると、いろんなことがどうでもよくなる。これもそんな現象のひとつに数えられるのかもしれない。もうすでにかなりの深刻だった問題たちが、「どうでもいい界」に続々と昇天しかかっている。天界もさわがしくなってきた。


かつてはヘアワックスの使用なしには、僕は外を出歩きたくなかった。帽子をかぶったあとのペタンとした頭を人前で晒すのも、死に等しいはずかしめだった。今では使い切れずに残ったヘアワックスが、洗面所の棚の上で薄ぼこりにメイクアップされている。帽子も室内ではちゃんと脱ぐ。どうだ、大人だろ。「どうでもいい」のキャパシティは、生き抜くために自然と身につくサバイバル能力なのかもしれない。おかげで幸い、生きている。


どうでもいいのだが、今でも鋭意放尿せんとしているときに隣に並んで立たれるのは苦手である。個室が空いていれば、一旦竿をしまってでも逃げ込むことさえある。よっぽど便器が汚くなければ、基本的には僕は大便器に対して立って放尿することはない。ちなみに、男子トイレの大便器がよっぽど汚い頻度は決して低いものとはいえない。


かならずしもトイレットペーパーのお世話にならずとも、お小水をしまいにできるようになった僕。かえって清潔なのか、あるいは不潔なのかよくわからない。確かなのは、年をちゃくちゃくととっているという事実のみである。


どうでもいい話なのだが、最近、妻のママ友のシノさんのご長女・アオノちゃんと僕は誕生日が一緒だとわかった。バナナマンの日村さんとか、映画監督のジョージ・ルーカスも同じらしいけれど、ホントかウソかわからない。


だからなんだというツッコミが正しく機能するような、どうでもいい話のできる大人になりたい。というかできれば、子供でいたい。子供はそもそも、どうでもいい話なんてしない。目の前のものごとすべてが、最大の関心事なのだ。どうでもいい話なんて、してる暇がない。子供は、忙しいのだ。大人は、付き合ってもらえるだけありがたいと思って接しよう。かれらは、おしっこのときにいちいちトイレットペーパーなんか使わない。