おいしい体験

「えぐみ」とか「救いがない感」と聞いて思い出すのは、村上春樹さんの著書だったりします。短編を中心にいくつか読みましたが、こんなことが身近な話だったらこわいなあとかいやだなあとか、耐えられない気持ちになる作品があったりします。それなのに、魅力を感じ、また読んでみたいと思える。

フィクション、作り話という「嘘」のなかに、現実的な人間の不条理・非合理、揺らぎだったり矛盾だったりを緻密に表現されると、隠したい自分や恥ずかしい自分をさらされたり、えぐりつけられたような気持ちになって、居心地の悪さを覚えます。それなのに、おもしろかった、いい体験だったと感じるのは、フィクション作品の機能のひとつなのでしょう。

現実に起こる「後味の悪いニュース」なんかがありますが、そうしたニュースが目や耳に飛び込んでくると、つい最後まで見たり聞いたりしてしまい、知ったあとで後味の悪い気分になるといったこともあるようです。

「ニュースのしっぽ」みたいなものを見つけて、「これは後味悪そうだ」と予感しながら、しっぽをつかみ引きずり寄せて、いざ本体を拝んでみると、予感したとおり(もしくはそれ以上に)後味の悪さを堪能します。

苦いもの、まずいものが薬になるというたとえがあります。僕たちが健康を保ったり、自身のバランスを整えたりする際に必要なのは、なにもおいしいものばかりではないのだと。

漢方の服薬時に、「おいしい」と感じるものはその人に効き目がある、という話を聞いたことがあります。漢方=まずい、というイメージが支配的かもしれませんが、実際に効くものは、「おいしい」と感じるのだと。「漢方=まずい」というイメージは、そのときの本人にとって「適切な処方ではないもの」を口にした人々の経験が積み重なって、つくられたのかもしれません。

「後味の悪い娯楽」というのは、適時適切に取り入れさえすれば、体験そのものは「おいしい」の方に入るのではないでしょうか。そしてときに「現実のニュース」が、部分的にその役割を果たすのかもしれません。

カレーやハーブティを好きな人がいますが、それらに使われるスパイスやハーブは、漢方に用いられるものもあります。ひょっとして僕たちは、「味がおいしい」というより「体験そのもの」がおいしくて、カレーやハーブティを、飲んだり食べたりしているのかも……?