読書の散歩道

本をいまほど好きになったのは、大人になってからでした。それもここ数年の話です。

最近は、読み終わらなくても次々買うようになりました。まったく読まなければどんな本かがわからないけれど、冒頭から少しでも読んであれば、多少なりともイメージが持てます。次に本を読む時間がとれるとき、「あ、今日はあれを読もう」となります。その時の気分や状況に合わせて、最適な本を手持ちの中から選べるのです。時間や体力に余裕のあるときは、専門用語が多く、ひとつひとつの単語のイメージを持つのにも時間がかかるような科学の本……ちょっと疲れちゃった隙間時間には、何も考えずに読み始めて、プフッと笑えるショートエッセイ……といった具合に、です。

少しでも読んでおいて、その本がどういうものかイメージを持てるようにしておけば、あとになってなにかヒントを探すとき、「そうだあの本ならいいことがありそうだ」と、見当をつけることができるのです。短い期間、もしくはまとまった期間に読みきってしまえるような本は、きっとそのときまさに必要としていた本なのだろうと思います。つくづく、本も栄養みたいなもので、「ああ、あれが食べたい」「今日は胃が重い」とかいいながら食事を選んで摂るように、選んで、読んでいることに気がつきます。

どんな食材にどんな栄養素が含まれているかを知っておくことは、そうした食事選び、適正量を見極めるための役に立ちます。実際に食べてみたなら、たとえば今日のトマトは甘いな、酸っぱいなとか、軽いと思って食べたら意外と重かったとかその逆もあったりして、あくまで知識だけでは経験にはなりませんけれど、そうした「経験」を得るためのガイド、道案内となるものが「知識」の役割なのだろうと思います。

日々、新たな「知識」となりうる栄養が入れ替わり立ち替わり登場してきます。どれもこれも、自分がよくためのヒントになる可能性を秘めている。よくなるとか、ヒントになるだとかだけじゃなく、当然毒や刺激になるものもたくさんあるでしょう。健康的だと思われがちな食材にも、毒や刺激物と同質の成分が微量含まれていたり、なんてこともよくあります。(とある高級な香水に、おならと同じ成分が含まれている……なんて話も聞き覚えがあります)

重要なのは、そのときそのときでスッと選べること。導かれるように、摂れること。求めたときに、近くにあるということでしょうか。そのための「人生」のような気さえ、してきます。