ヴァーチャル鳥居と初詣〜思い込みと神頼〜

 思い込みにも、清々しくなれたり、良い影響をもたらすものがあるんですね。


 よく大晦日(0時手前)や元旦(年越し後、0時をまわったあと)から、初詣に行きました。


 僕の近年は、馴染みのライブハウスのカウントダウンイベントに出演し、そのままバンド仲間と吉祥寺の神社へ出かけていって、甘酒やらシャーピンやらのテキヤを横目に見ながら、参道の幅いっぱいに広がった行列に並び、世間をろくに知りもしないのに世間話をしながら列の消化を気長に待って、いざ自分の番となったら、その場で考えた形ばかりの抱負を心の中でつぶやき、パンパン、ガラガラ、おつかれ、解散!といったことをよくしていました。


 今回の正月はそんなこともなく、大晦日の夜も、前後の生活リズムを保って子ども(1歳)と一緒に眠っていました。1週間経たんとする今も、初詣にはまだ行っていません。


 お守りやおみくじと聞けば、真っ先に「神社のビジネス」を思い浮かべてしまいます。不謹慎でしょうか。あれらのものを、楽しんだり、心を豊かにするきっかけにできるという価値観が、いまの僕にはあまりないのかもしれません。


 たとえば交通安全のお守りが、何か本当に不測の事態が起こりかけたその瞬間に、エアバッグみたいに膨れ上がって、持つ人の身を守ってくれるでしょうか。……そういうところとは別の価値が、お守りやおみくじにはあるのでしょう。


 「他者に頼る」のも、能力のうちなのかなと思います。自分でどうにかできる範疇にないものを、神さまやらなんやらに頼ろうとするのは、良いことかもしれません。自分でどうにかできることは、自分でするしかないのですから。


 自分でできることには限りがあります。だからこそ、他者と関係を持ちます。僕は自分がなんでもできるとは思わないけれど、いくらか、自分のできることを過大に思い込んでいるところがあるのかもしれません。だから、他者に頼るのが下手だし、神さまにも同様に頼ろうとすることがありません。


 自分の手でどうにかなること、ならないことの区別は、思い込んではならない……力の及ばない範囲のことは、その力のある他者に、なるべく頼る。他者の力を借りてもどうにもならないことは、神さまやら霊的な存在の力を思い込み、頼っても良いのではないかと……。


 今年の僕の課題(テーマ)は、「頼る」ことかもしれません。


 神社に詣でるような気持ちで、この文章を書きながら、ネットの雲に向かい合っていることに気付きます。ああ、これが僕の初詣なのかと……現実には存在しない、ヴァーチャル鳥居が立っている。僕には見えるぞ……と、さっそく思い込んでみる。


今年も何卒、よろしくお願い申し上げます。