ならわしと国技

お節料理というものが、これといってすすんで食べたいものと思えない。

もともと歳神様をもてなすための料理だと最近聞いた。なるほど、人間をよろこばすための料理というわけではないのだろう。神事みたいなものか。保存のきくもので、一年中休みのないお母さんたちにゆっくりしてもらう意味もあるとか。この理由は後付けでは?とも思うが、なるほど、とも思う。ひと品ひと品に子孫繁栄とか長寿祈願とかの意味が込められているようだし、験担ぎや縁起物というイメージがつきまとう。

神事や験担ぎ、縁起物も、神様のためにやるのか知らないがやるのは生きている人間である。やる人たちが、自分や誰かの幸せを願って始めたことだろう。そうしたおこないやモノに接することが、その人の精神的充足につながる。学問や文明の未発達が、そうしたおこないを信じさせていたのかとも考えたが、そうした頃に始まって、今も続いているものがなかにはある。それだけ、発展した科学にも明かせないでいる領域がいまもあるのか。あるいは、どっちでも良いのだろう。いつやめても良いからこそ、なんとなくでも続いているならわし・しきたりとあったものがありそうだ。なんとなく続いていることをやめにしないのは、日本人の特技であり、国技である。

年末年始。あちこちが休みになり。親戚家族は顔を合わし。年に一度の料理を口にして酒を酌み交わし。胃がつかれちゃったねなんていいながら、また日常へと戻っていく。

いつもの「暮れ」「明け」と、新年を迎える瞬間のそれが、そう特別に違うものでもないのだけれど、人々はつどい、寄り合い、地元の同級生に久しぶりに会うものもいれば、その日だけの夜更かしを親に認められてテレビにかじりつく少年少女もいたと思う。


今年はどう過ごそうかね。