「厭き性」という才能

気になる本があって本屋さんに行ったのだけれど、全然違う本を買って帰ってきた。

その「気になる本」が置いてある本屋さんを想像して出かけたのだけれど、実際に行ってみたら全然知らない作家さんの魅力的な本がいっぱい並んでいて、「気になっていた本」は一時的に頭の中のどこかへいってしまった。

未来はつくづくわからない。やってみなければわからないこと、行ってみなければわからない場所がたくさんある。

未来を想像する材料は、未来にはない。いや、未来には「そのさらに未来を想像する未来」があるだろうけど、現在から先を見通すための材料は、「現在まで」にしか存在しない。

「まだない」ものを想像するには、「いまある」ものを手掛かりにするしかない。「いまあるもの」の姿かたちをよ〜く見て、将来どんな可能性があるか想像するのだ。馬に乗っていた時代の人は(いまも乗馬する人はいるけれど)、目に見えないエネルギーで高速で車輪を回す乗り物を想像できただろうか。

あまり飛躍しすぎた未来は想像が難しそうだ。あてずっぽうのでたらめを思い浮かべてもしかたないけれど、馬で移動した時代の人にとっては、自動車や新幹線や飛行機なんてものは、それこそあてずっぽうのでたらめみたいな「夢」だったに違いない。

近い未来ほど、高い精度で現在からみることができる。いかに「現在まで」を知っているかにその精度は左右されるけれど、これが人ひとりの一生を注ぎ込んでも足りないくらい膨大だ。想像した未来を実現させるために「現在まで」を研究するけれど、そうしているうちに時間が経って、「過去をみるために未来を費やしている」みたいになってしまいかねない。

人間の能力に、厭きるという力がある。知っているもの、見たことのあるものの繰り返しをつまらないと思えるのだ。すでにあるものが厭になったとき、その人は未来を見ているかもしれない。

厭き性も、才能だと思う。