伝言ゲーム

ちゃんと向き合うことなく過ごしてしまったことがある。
 
高校の古典の授業なんかもそうである。今でもほとんどわからない。
 
古典の授業だけではない。ほぼすべての学科を居眠りして通り過ぎた記憶があるのが、僕の高校時代である。夏休みなんかには英語の宿題で海外の古典の長文翻訳とかも課されたが、居眠りする場所が学校から家に移っただけであった。居眠りというかしっかり床についていた。
 
向き合いきれなかったものごとと、ふたたび向き合えるチャンスは巡ってくる。時間がたつと自分も成長するのか、かつてはみじんも興味を感じられなかったものに関心が生まれることがある。いろんなもの、人と関わる経験が増えて、「関連づけ」のネットワークが広く密になるのだろう。なんらかの「関連」を、自分や自分の身のまわりの人、尊敬する人や好きな人なんかに見いだすと、急にそのものごとについて知りたくなったりする。それが好機である。好機は、人やものごとと関わるほどに、自分の暮らす世界に満ち満ちていくのだろう。
 
向き合いきれなかったのが「ものごと」ならばそうやってふたたび好機が訪れることもあるだろう。
 
相手が「人」だと、向こうにも都合があるからなかなかそうもいかない。それぞれに人生を歩むなかで、なにかの偶然でふたたびあいまみえることもあるかもしれないが、向き合いきれなかった「あの時」に戻れるわけではない。
 
「あの時」の自分は、あの時のままの姿ではもうどこにも存在していない。「いまの自分」の血となり肉となってからだをめぐって、もうとっくにどこかにいってしまったかもしれない。「記憶」とは、自分の中で伝言ゲームを繰り返して残されるようなものだ。大事なところが残っているようでいて、伝言を経るほどにニュアンスが変わってしまっているかもしれない。
 
こしょこしょ。
 
え?
 
いまなんていったの?