たましいの容れ物

人間は、身体なしには存在できない。

亡くなってしまった人は身体なしに存在しているようにも思えるけれど、あくまで生きている人の身体のなかにいる。いまのところ、概念だけで存在することはできないようである。

電子データに置き換えられた情報だって、かならず物理的ななにかに宿っている。手持ちのコンピュータだったりSDカードやUSBメモリ、CDやDVDといった円盤かもしれないが、やはり容れ物に宿っている。

クラウドという存在のことを自分が正しく理解しているとは思えないけれど、たとえば世界じゅうの電子機器とソフトにあたるもの(記録媒体)すべてが消失したら、クラウド上のデータだって運命をおなじくするだろう。ネット上の「容量」を確保して提供している会社が管理するすべてのコンピュータ(マザーコンピュータとでもいうのだろうか)も消えてなくなったら、クラウドもなにもない。雲とはうまい例えではあるけれど、本当に「雲」なわけではない。

「光」と同等の速さで、世界じゅうの空間のどこかを飛び交っている最中の「電子情報」が「容れ物」なしに存在しているかもしれないが、その飛び交っている最中の所在地たる「空間」こそが、その瞬間のその電子情報の「容れ物」である。

人間は身体という容れ物におさまって存在しているからこそ、身体を介した言葉の表現が発達した。あたたかいとかつめたいとか、柔和だとかとがっているとか、身体感覚によって感知できることを言葉のコミュニケーションに持ち込んでいる。その感覚がどんなものなのか、自分の経験と照らし合わせることで、相手が伝えようとすることはどういうものなのかを理解しようとする。すべての人が、おなじものごとをおなじように感じるわけではない。だれかになりかわることはできないけれど、あの人になってこの経験をしていたら、一体どんなふうに感じるのだろうと思うことがある。共通に思える事実に対峙したとしても、全然ちがう体験・体感になるのだろう。

だからいまのところ、わたしの身体=わたしそのものといっていい。だれかの中に存在する「わたし」のイメージは、それはそれで独立したもので、けっして「わたし」をありのままにとらえたものとは限らない。

そのギャップに驚くことが、人間どうしのコミュニケーションの楽しいところだと思う。