知識の蜜

本質的に「いやな人」「嫌いな人」っているんだろうかと考える。


「いやだ」「避けたい」と思うような人がいるとしたら、その人とは共有しきれていない何かがあるんじゃないかと思う。あるいは、その人のごく一面しか自分が見ていないかだ。あたりまえのようだけど、だれかの「すべてを嫌いだ」と思うことのほうが難しいのではないか。


その人をいやだと思う「とある一面」以外の部分を見ること、共有しきれていないなにかを共有することが大変で、おっくうになっているだけの場合が多いのではないか。はじめはいやだと思っても、仕事で何度も顔を突き合わせるうちにそうでもなくなるということがある。「職場」といったような避けがたい結びつきが、共有や理解のチャンスをたびたび与えてくれさえすれば、「嫌い」や「いやだ」はなくなる、もしくは減るのではないかと思う。


コミュニケーションの相性、お互いに「思い込みがちなポイント」などが誤解を招きやすい人どうし、なんてのが世の中にはいくらでもいるだろう。そういう人と、「会わなくても済む」場合、そこを付き合わせて理解・共有しあうようなエネルギーを割くまでもなく、「会わない」選択肢ひとつで万事うまくいく。


大人になるほどに、この選択肢が効力を発揮する機会が増えるかもしれない。「学校」みたいなところで、多くの人が共同生活を強いられるのは人生においてかなり短い期間の特殊な状態だといえる。そのことが在学中にはなかなかわからないから、みんないろいろな思いを抱えて過ごすことになる。


身近に「いやな人」「苦手な人」がいて、「会わずに済ます」ことができないとしたら、自分が変わるしかないのかもしれない。これは「嫌いでも好きでもない人」を「もっと好きになる」ためにも同じことがいえそうだ。


「自分が変わろう」と思える動機となるようななにかしらを、「自分」はまだまだ知らない。


だから、「もの知り」ほど寛容だと思う。「知る」だけなら、努力次第でだれでもできる。「結果が必ずともなう努力」なんて、甘い蜜のように思えやしないか。


だから、「知識」に人はあつまるのだろう。