押して歩くレーシングカー

これまで「よし」としてきたことを「よしとし続けよう」とした場合、いつまでもよくなるようなものではない。なにごとにも限界はある。

「発展」「経済成長」といった、増えること、大きくなることをよしとしてきた。これまでは、そんな時代だったろうと思う。

資源も国土も有限だ。増えたり大きくなったりし続けることが、いつまでも「いいこと」であり続けるわけがない。そんなことにとっくに気づいているひとはたくさんいると思う。一方で、「増やす」「大きくする」ことで成長してきた時代を生きたひとたちがまだまだたくさんいる。おそらく仕事をリタイア済みか、リタイアせんとする時期にいるひとたちが多いことと思う。

急激な方向転換には負担が生じる。その負担が大きすぎると、壊れたり取り返しのつかないダメージを負ってしまう場合がある。これまでの方向から急激にターンするのではなく、スリップしないように、衝突しないように、徐々にブレーキをかけながら、ハンドルを切るような時代だ。じわじわとブレーキをかけたり、気づかれない程度にわずかにハンドルを傾けたりするのは、楽しいだろうか。きっと、誰もいない広野で好きなだけアクセルを踏み込める状況の方に、自由や解放感を覚えるひとが多いのではないだろうか。それが、これまでの時代に築かれた価値観の主流である。これからは、いろいろな地形のところに少しずつひとが住んで、それぞれの環境に細かく適応した営みを送るような、そんな風になっていくんじゃないかと思う。まだまだたいへんに時間のかかることだろうとは思うけど。いまはまだ、みんなあくせくエネルギーを遣って、日々西へ東へ奔走している。

僕の妻の実家(長野県)の近くの空き地に、使われなくなった自動車が一台放置されている。誰のものかもわからない。その近くの土地で育てたキュウリやらトマトやらが、よく実家のお母さんから送られてくる。僕のいまの住まいは、東京だ。まだまだそんな時代なのである。