「関門」にトンカチ

毎日なにかを続ける。そのうえで一定以上の水準を求めたら、どうなってしまうんでしょう。「ろくでもない原稿」では許さない、としたら… 

本人にとっては「ろくでもない原稿」に含まれてしまうような出来不出来があるとしても、受け取る人にとっては一定以上の水準が保たれているようにみえる。誠実な仕事とは、そういうものかもしれません。 

「他者に発信する(本人のなかでの出来不出来問わず)」ということ自体がひとつの関門というか、水準になっているように思えます。その関門に、個性があらわれる。その人その人の個性を持った「関門」を通って送り出されるなにかしらを、僕らは毎日受け取ったり発したり、を繰り返しているのです。 

毎日の取り組みとは、その「関門」のバランスをとること、いつも最新の状態に調整しつづけることなのかもしれません。関門を通らんとする内容をつくる力(受ける力)も、その取り組みのなかで高まるだろうし、それに合わせて関門のハードルがあがっていけば、他者にとってはその関門を通ってきた「内容」は、つねに一定の水準以上を満たしているようにみえるでしょう。 

僕は毎日、音楽をやっています。 

歌を歌い、ギターを弾き、ピアノを弾き、ドラムを叩き、ベースを弾き…ということを毎日やっています。 

新しいレパートリーのための練習をし、自らレパートリーを作りもします。 

毎日録音機を動かして、外に発信するためのものも作っていますが、かたちになるのに時間がかかるので、毎日は発信できません。 

こうしてなにか文章を読んだり書いたりしている時間もすべて、音楽のために費やせば、その限りではないのかもしれませんが… 

これがいまの僕の「関門」なのでしょう。 

きたえなきゃね。