まぼろしの味〜Taste of a Dream〜

感情が動く、と書いて「感動」となる。感性が動く、かもしれない。(あるいは、感覚?) 

からだの中の動きのように思えるけど、感動は実際に身体を動かす動機となる。人に行動を起こさせる。それが感動である。 

感動するものに出会うと、それまでの自分ががらっと変わったような気になる。変えられた自分は、それまでには考えられなかったような行動を起こす。選ばなかったような選択肢をとるようにもなる。 

人に影響をあたえるようなはたらきは、ほんとうに社会を動かすような力がある。あたりまえのようなことだけど、ひとりひとりがあつまって社会が形成されている。 

紙の上に表現された絵や文章が、スマートフォンやパソコンに出力された音が、映像が、人を突き動かすような強い影響を与えることがある。そういった情報の共有が速い。かつてはなかったことである。 

紙や画面、音や映像であらわすのが困難なものも、人間は感じられるし、知覚できる。これを他人と共有しようとすると、音や映像、文字や絵といった記号に置き換える必要がでてくる。この置き換えをはさまないでも、感覚や知覚を共有できたような気になることはある。そのまぼろしの分かち合い、存在しないかもしれない相互理解(誤解)のとろけるような甘美さのために、僕は突き動かされて生きている。…かもしれない。 

文庫本には、巻末に解説なんかが載っている。作品に対して解説者が寄せた、甘くとろけるような「まぼろしの味」が、文章で表現されていたりする。もちろんそういった「まぼろし」、個人の抱く特性を徹底的に排除して書かれた解説もたくさんある。 

僕は誰の解説も書いたことはないし、書かれたこともない。…出版に関していえば、である。それも公な商用出版のことでしかない。出版にも、か細い枝葉に渡って大小さまざまある。個人的なものだって出版にふくまれるものがたくさんある。紙などの媒体を通していないだけで、人と人との関わりのなかで生きるかぎり、僕たちはあるゆるところで自分たちの解説をしあって生きているようなものでもある。 

今日もきっと誰かの解説をするし、されることだろう。文庫本の巻末に載っているアレは、「解説」としてはとても限られた形のひとつでしかない。しっかりと明文化された「解説」にふれられる貴重な機会でもある。おもしろいので、僕はいつも読み飛ばすことはない。