きみ:ぼく:電子版

街中に突っ立ってスマートフォンの画面に注視している、他人どうしの集団に出会うことがある。どうも、ゲームをしているらしい。

現実の世界での位置情報を利用した種類のゲームがあるようである。僕も一度だけインストールしたことがあるけれど、何がおもしろいのかわからなかったので、3分でプレイをやめて、アンインストールした。

デンパなものが、現実の人間の足を動かす。

電波が届かない、奥深い山なんかもたくさん存在している。

小淵沢に滞在したとき、泊まった部屋に電波が届かないことがあった。外に出て数分歩いて坂道を降りていくと、電波が通じた。僕もまた、例外なく電波を求めて自分の足を使ったことになる。

なにかを届けるには、自分の足を使うしかなかった。手紙だって、書いたらポストまで歩いて持っていって投函していたはずだ。物質的なものの配送は、請け負ってくれる業者がいるけれど、人間が自分の足や乗り物を利用して運んでいる。

電波に換えられるものだけが、離れていてもやりとりできる。それが、物質的なものに変換しうるだけの価値を持つことさえある。たくさんの人が、それでお金を稼いで食いつないでいることだろう。

電子の中にしか存在しないものも、認知できるし、対象に愛着を持ったりできる。

街角に突如あらわれるあの他人どうしの集団は、画面の中のなにかしらに愛着を持ったりして夢中になっているのだろう。電子の中にしか存在しないものに愛着を抱いたりできるなんて、人間らしくて高等なことだ。動物には無理だろう。

目で見たりさわったりできないからといって、存在しないことにはならない。

存在していても離れていたら、目で見たりさわったりできないのは人間どうしだって同じだ。

たとえば「LINE」でメッセージを送りあって、その人の存在を感じあっているとき、その瞬間のその人たちの所在地はどこになる?肉体がもちろんどこかに位置しているだろうけど、メッセージを受信した人の手元の端末の中にも、その人が存在しているかのようである。

きみ:ぼく:電子版

といったところだろうか。

(なにがだ)