カバンのなかの窓口

漫画とは、とても贅沢な品だ。


とてつもない労力を費やして描かれて、読まれるのは一瞬である。


文章を中心に構成された本の方が、書き手の費やした時間と読み手の費やす時間が近くなる(場合によっては書き手のスピードの方が早い)。 人間がチカラを尽くして時間をかけてつくりあげるもの、ある種の「贅沢品」が好まれるのが、現代なのかもしれない。


ネットでなんでもすぐ知れるし、手に入る。


他人と同じであることが重要とされた時代がかつてあったようである。大量生産されたみんなと同じ品ものを、みんなと同じように使うのだ。それが幸せの基準となりえた。


なにをよし(善し、美し、好し)とするか、という個人の趣味嗜好の多様化・細分化を加速させたのも、ネットのチカラかもしれない。


ヘタな鉄砲をたくさん撃たれるなかのひとつに当たるというより、狙いすまされた1発の銃弾に射抜かれるようなスタイルだ。


個々人がいろいろな環境でいろいろな動きをするようになったから、同じ種類の鉄砲と弾を大量に用意して、当てずっぽうに乱発しても的中しなくなった。


限定した対象を注意深く観察し、1発の弾丸で射抜くチャンスを逃さない、そんな腕のいいスナイパーが活躍するし、求められているご時分なのかもしれない。


家庭で、家族がつくる食事はうまい。


味どうこうより、限られたひとのために手を割いてくれる人の存在がうまいのだ。


味に注目しても、身近な限定された対象のことは、注意深く、長く、観察するチャンスが多い。だから、その人がおいしいと思うツボを的確にとらえられる可能性が高い、というふうにもとれる。


身近な対象とはもちろん自分自身でもある。自分で食べるために自分でこしらえた食事の味は、唯一無二のうまさがある。だって、自分がおいしく食べたいがために作るのだから。


昨日、僕は味噌汁にカレー粉とチーズとバターをトッピングして食べた。家族がつくって、冷蔵庫に残っていたものを温め直して食べたのだ。うまくて死ぬかと思った。そこでは、万人ウケする味も見た目も考える必要はない。自分で消費するために、自分でつくる。うまそうだといってくれる似た価値観をもった誰かが、ネットで探せばすぐに見つかるだろう。同様にそんな味噌汁は最悪だという人もどこかにたくさんいる。


自給自足の「漫画」をやろうとなると、けっこう大変かもしれない。僕は楽器を演奏するけれど、まともな音楽になるまでにはそれなりの訓練が必要だっだ。


一方で、ちゃんとした用紙と道具をそろえなくても、ウラ紙と鉛筆一本でも漫画は描ける。音楽だって、高い楽器を買わなくても、自分の指で机を叩けばその場でリズムが刻めるし、喉笛を震わせればその場で歌える。


インスタントなものでも、自分のために自分でするソレは、大量生産された工業製品とはだいぶ違って思える。狙いすました人に、狙いすましたモノを届け、伝える。そのスピードがキモなのか。


指で触れたスマホを介して発したものが、瞬時にスマホの画面の向こう側の指を伝ってリアクションが返ってくる。


その指に、直接触れられたらいいのに。


 (それもまた、おそろしい)


この手のひらサイズのモニター画面が、他者の過剰な介入や干渉を防いだり、コントロールするための盾であり、窓口でもある。


みんながカバンやポケットに入れて、持ち歩いている。