枠型ハラスメント—君は、君だよ。

それぞれの人にとっての、「君は君だよ」がある。その「君」は、変わり続ける。成長したり、保ったり、劣化したりする。

久しぶりに会った人に「変わらないね」なんて言ったりするけれど、お互いを更新し続けた結果、そのように見えただけのこと。観測する側もされる側も、決してあの時のままではない。保つということは、相対的に位置関係が変わらないように見える状態のことで、絶対的な位置観測が可能だったとしたら、きっとあのときのままの場所にはいないだろう。地球の表面を滑り回る僕らである。

君は君だよと言われて、そりゃそうだと受け流す人もいるだろう。リンゴはリンゴだし、バナナはバナナ。みかんはみかんである(なんでくだものか)。

ああそうか、わたしはわたしなんだと、考えを改めたり、心を持ち直す人もいる。

そういう人は、誰かになろうとしていたのかもしれない。誰かにならないといけないと、そう思い込んでいたかもしれない。

10代はこういうもの。

20代はこんな風。

30代はだいたいこう。

40、50とあっちゅう間…

そんな枠型に生地を注ぎ込まれて生まれてくるわけじゃない。同じ顔をした人形焼とは違うのだ。

10代、20代、なんていう言い方もたいそう立派な枠型である。19歳と20歳、なにがそんなに違うのか。法律上の扱いか。それらは外的なものである。20歳とはこういうものである、という、人口の分だけ色濃く刻まれる平均値。そこからちょっと外れるだけでお前は型にはまらない、とはじかれる、そんな社会通念、思い込みや常識の押し売りみたいなものに、阻まれて、不快な思いをするようなことが、少なくない人の身に起こりうる。


君は君だよ、とは。

——枠型ハラスメントとでも名付けようか。

自分で自分を枠型にはめよう、はまろうとする人への、解放の言葉。

——自分で自分をはめるための枠型をわざわざつくることはない。

まわりを見なくていい。でも、見てほしい。

——枠にはまることに「安心」を覚えるのだとしたら。

自分が映った鏡が、そこらじゅうに見つかるだろう。

——「安心」がその枠型にはまる形でなければならないということ。

  君は、君だよ。