幽霊さんぽ

最近、月の力が気になる。


海の水を引っ張りあげて、潮の満ち引きに影響するくらい巨大な力なのだ。


人間に影響しないわけがない。


少しインターネットで検索して調べてみた。


満月は、感情が高ぶりやすく、なんでもよく吸収する。


新月は、直感が冴え、何かを手放したり整理したりするのに向く。


そんな傾向があるそうだ。


ほんとかどうかわからないけど、僕はときおり「冴え」の感覚を感じることがある。昨日も、そうだったかもしれない。今はちょうど、新月を少し過ぎた頃合いだ。月の影響もあって、僕は冴えていたのか。


自分がそこにいないかのような、達観。


ものを、ひとを、よく見れば見るほどによく見える。


なにかを入れるには、まずあるものを出さなきゃならない。モノでふさがった押し入れは、それ以上なにも押し入れることなんてできないのだから。


新月の僕はなにもない、すっからかんの幽霊だ。そんな体感を覚える。


幽霊が這いずり回って、街をふらふら、ふらふらと。


噂に聞いていたカフェに入ってみる。


惰性で持ち歩いた本はリュックの中に入れたまま、触れないようにした。


店を、人を、音を、空気を。


供されたカフェラテの、甘くてすっぱいふくよかな匂いを。


すっからかんのあたまを持ち上げると、白熱電球。フィラメントが放つ強い光。けど優しい。そうか。強いものは優しいのか。


何気なくレンズを向けると、アルファベットの「A」がモニターにあらわれた。それはフィラメントの形がレンズに反射したものだったのだけれど、なんとなくこの店に、この場に、この世界に歓迎されたような気がした。僕の名前の頭文字が、「A」だからだ。


それだけのことに、おおげさにも自分とこの世界のつながりを認めることができる。


現実にはありもしないものかもしれないけれど。


そうか、僕は幽霊だったかな。


まあ、どっちでもいいか。

じぶんが酔っていることを否定する酔っ払いがいる。酔っ払うことは恥ずかしいことだ、という認識があるのかもしれない。自分は恥ずかしい人である、ということを認めたくないのだろう。

酔っ払ったならば、酔った自分を認識して、酔ったときなりの適切な行動が必要になる。適切な行動とはなにかを判断する力が酔うと失われるから、これは結構難しいことかもしれない。酔っ払ったときにだけ急に心がけようとしても、できない。平常時から、酔っ払って判断力が弱まったときでも、残りわずかな力で適切な行動がとれるように訓練しておく必要がある。

なんだかおおげさな言いようかもしれない。まずは第一歩、酔ったら酔った自分を認めること。そうでないと、酔ってないときにのみ有効なマニュアルをめくって、ぐらぐらするあたまでこんなときどうするんだっけ、といった具合に間違ったページを参照し、内容を読み違え、すっ飛ばし、挙句の果てに、ええい俺にはマニュアルなんて必要ないと放り投げ、力を失った本能のおもむくままに行動することになる。

酔ったときは、自分と対話するといいと思う。誰かをつかまえて話を聞いてもらいたくなるけれど、まずは自分で自分の話を聞いてやってからでも遅くない。酔っている自分を自覚して、見守ってやる自分をもうひとり、自分のなかに設けてやろう。酔っている自分だけがすべてかのように思い込んでしまうことが、他者を巻き込む動機になる。まずは自分に打ち明けて、他人の力が必要かどうかの判断は、その後でも遅くない。

酔っているひとは、だれかにそばにいてほしいだけの場合があるようだ。その場合は、自分を見守る自分をもうけてやると、それだけで落ち着き、充足が得られる。もちろん、どんな迷惑をかけられてもかまわない、と許してくれるひとが身のまわりにいるのなら、そのひとに協力してもらって、そばにいてもらってもかまわない。

具体的には、酔った自分の考えていることを書き出してみるといいと思う。手帳でもメモでもなんでもいいし、多くのひとが持っているであろうスマートフォンで、ことたりる。

書き出すという過程を経るだけで、酔っ払って書きなぐった自分と、それを見る自分との間に距離ができる。自分を見守る自分をもうける、なんてことは曲芸のように思えるひとがいたとしたら、試してもらいたい。

書き出すというのはひとつの手段だ。

自分を写真や動画の被写体にして、自分で撮って見てみてもよし、話や声、歌を録音して聞いてみてもいいし、鏡の前に立ってみるでもいい。相手がいるならば、そのひとに「鏡」になってもらうというだけだ。とてもハードルが低くて実行しやすい手段として、書き出すという選択肢は心強い。

酔っ払ったときにだけお呼びのかかる、自分の「ヨッパライノート」をつくってみてもおもしろいかもしれない。

なんかこわくて読み返したくないけれど。

意外に自分のことを微笑ましく思えたりするんじゃないかと、想像する。

酔っ払えるということは、それだけで幸せな状態にあるということ。