かわやスマホ

どこにでも本を持って歩く。

トイレにも本を置いている。

ちょっとした隙間時間でも、有効に使いたいという思いがそうさせる。

ただの知識は、役に立たない。

本を読んだり、情報を仕入れれば知識は増える。

それらは、体験と結びついて初めて自分の血肉となり、骨となる。

少しの隙間時間でも情報を仕入れることに躍起になるのも否定はしないが、自分の中でぐるぐると対流させないと、深く沈んで澱となる。

たくさんの情報、その個々は、脈絡なくあふれて、誰にでも触れられる。

それらを得た組み合わせに、個人の差があらわれる。その組み合わせは、自分だけのもの。得られたものをどう結びつけるかが、考えるということだ。

考えることは、それだけで体験に等しい。

見たり聞いたり触ったり、ということはとても刺激の強いことだから、身体的な刺激のことを指して体験と解釈する傾きもあるけれど、あたまだってからだの一部である。そもそも、考えることはあたまの役割だなんてことはわからない。あたまの役割を、僕は狭い方へ狭い方へ思い違えているかもしれない。

知っているということは、その人の行動を変える。

名前だけ知っているものに実際に出会えたら、倉庫のなかのばらばらだった材料がひとつになって、自分にとってそのものがどういうものかを4次元的に認識できるようになる。

これが体験というものなのかもしれない。

考えることにも時間がかかる。

時間をかけて考えたことは、体験に等しい。

さらなる知識を呼び、体験を呼び、自分の世界を広げてくれる。

本もスマホも、情報の源ではある。

バランスや距離を感じながら、適当にお付き合いしたい。