ともだち=利害の一致

人から発せられたものを受けて育つと、そういう人になる。

生まれたときにすでに世界はあって、その世界はこれまでの年長者たちがつくってきた世界である。

その世界のもの、ことをたくさん受けたり、キャッチして育てば、じぶんが今の新たな世界の一部になる。

そうして新たな今の世界を、新しく生まれてくる世代の人たちが受けたり、キャッチして循環していく。

年長者に愛情を注がれて育った人は、年少者に愛情を持って接することができる…暴力を受けて育った人は、暴力で自己発信しようとする…そんな話を聞くことがある。

自分が受けて、キャッチしてきたもので自分がつくられるからなのだろう。

どんなものでもことでも、発したものごとは循環する。誰にも相手にされなくても、その状態自体が発信と受信である。なにも発さないし受けもしないということは不可能であって、それは存在していないということだ。生きていればその存在のぶんだけこの世界に場所をとる。そこになにかがあれば、そこに同時にべつのものが存在することはできない。生きるということは、多少なりとも他者をおしのけて存在するということである。

年をとればそれだけ、できることもできないことも移り変わる。

たとえば70歳になれば、100メートルを10秒あまりで走るようなことはできなくなるだろうけど、70歳までを生きた経験がどんなものかは、15歳では知りえない。

そのときしかできないことをやればいいのだ。

たとえ20歳であろうと70歳であろうと、お互いにしかできないことをやりあうのが対等だ。

そういう人どうしはお互いを尊敬できるし、ともだちにもなれる。

先が長いのをいいことに、未来にすがりやすいのが年少者。

これまでが長かったぶん、過去にすがりやすいのが年長者。

過去や未来にすがるもの同士は、利害が一致しないからののしり合うかもしれない。

そのときしかやれないことをやるもの同士は、お互いが助け合ったり与え合う関係になれるだろう。

ともだち関係というのは、バッサリ言ってしまおう。利害の一致にある。

そんなのは美しくないという人がいるかもしれない。そういう人は美しいものだけを見ていればいい。

この利害の一致というものほど、信頼できる。理にかなっているからだ。嘘や見栄や虚勢では、ほんとうのともだちにはなれない。

年齢や国籍や性別が、利害の有無を決めるわけではない。

ともだちに、なってみないか。