納得のハードル

鉄瓶で沸かしたお湯でつくった飲み物は、おいしい気がする。

それでお茶やコーヒーを淹れると、なんだか口当たりなめらかに感じられる。

お湯に鉄瓶の鉄分が溶け出すからだと、誰かが言った。

僕は思う。鉄瓶で沸かすと、なんか水の分子的なものが整うんじゃないのか?

…なんだこの理論は。どこで湧いて出た理屈だろう。根拠もないし、分子の意味も整うの意味もよく分からずに言っている。我ながら、ずさんである。

電気ポットで沸かしたお湯は、なんだか薬くさい気がする。

たまに内側をのぞいてみると、白いこびりつきのようなものが確認できることがある。

あれは水道水のカルキが固まったものだろうか。そもそも塩素ってポットの中の環境で固まったりするものなのだろうか?

これまた根も葉もない。

目に見えないようなレベルの事実を察知して、直感的にモノや行動を選択する能力が、人間にはあるんじゃないかと思えるときがある。

一方、そんな理屈は大間違いで、直感的に選びとった行為も目に見えない水準で科学的に解き明かすと、まったく理にかなっていないということもあるようである。

精神衛生的な影響が大きい、なんて理屈もよく使われる。たぶん僕は人生の中で何度かはこの「精神衛生的に…」というセンテンスを口にしていると思う。

これまた、精神衛生面が物理的にどれだけの影響をもたらすのか、計上可能な量的根拠はない。

精神を左右するのも、解き明かせば物的なものかもしれない。

なんらかの脳内の物質による影響を、僕らは精神のものだと思い込んだりしているかもしれない。

肉体と精神は不可分、というか実際同一のものだとも聞く。

それまたその場でとても納得したような気になって、あらためてどういうことなんだと問われても自分では説明できない。

ずさんなものである。

信じたいものを信じ、

信じてきたものを揺さぶって、

代替となるものをまた信じ始める。

なにかを信用することは、心のよりどころになる。

心のよりどころがあると、精神が安定するようだ。

おっと、また出てきたぞ、精神。

精神=肉体であるならば、

信ずればまた肉体も安定するということか。

精神衛生的に…はすなわち、肉体のことを語っている。

自分の言うことすべてが、根も葉もないことのように思えてきたが…

根も葉も肉体的なことである。

すなわち肉体のないところに精神はないとする。

うーんなるほど、と、

自分で言ったことに納得してみる。

僕は「納得」のハードルを、もう少し上げるべきかもしれない。