短冊の海

自分のしたことは、自分に返ってくる。

そのおこかいが良かったのか悪かったのか、評価されるかのように。

だれが評価するのかというと、それが「世間様」というやつかもしれない。

「世間様」を構成するのは、会ったり触れ合ったりできる生身の人間も含まれるし、どこにそんなことを本気で思っている人がいるの?と問いたくなるような、まぼろしも含まれる。すべてではないにしろ、「常識」というのはここでいう「まぼろし」と重なる部分が少なからずある。特定の誰かの都合の良いように、メイクアップされた価値観、判断基準。そういうものが含まれる。

自分のしたことが、自分に返ってくる。

そう思うのだけれど、「自分」の範囲がとても広い。

たとえば自治体のルールにしたがってゴミ出しをするとする。このルールは、もともとは自分たちが投票で選んでおこなわれた政治によるものかもしれないけれど、本人にはもはや「自分で選んで決めたこと」という意識はないだろう。

自分でコントロールしたことが細かく反映された結果を、ピンポイントで自分が受け取るという「因果応報、自業自得」の範疇は、狭い。

達観すればなにごとも、自分のおこないは自分に返ってきていると僕は信じるけれども、そのことを個々人に忘れさせてしまうほどに、この世は複雑にこんがらがっている。

こんがらがっているだけで、糸の入口と出口、両端の切り口を把握してさえいれば、途中でいろんなことが起きているだけで、原因と結果を見失うことはない。

このこんがらがりが大きいために、もはや生まれたときから自分の周りを網羅するようなかたちで周囲を覆い尽くしている。

マグロの刺身が短冊のかたちで海を泳いでいると思った、と言った子どもがいたという話を聞いたことがあるけれど、因果を覆い隠すこんがらがりを示す、象徴的な話だとも僕は思う。

マグロを確かめようと水族館に行くけれど、あいつらはホントは海にいる。

僕だって、ホントの海で泳ぐマグロの姿を、自分の目で見たことがあるわけじゃないのに。

自分は、矮小だなぁ。

なおかつ、「自分」は、でかい。