送受信の平衡感覚

人やモノを題材になにかを作るとき、作る人は対象となる人や物に愛情を持っている。

愛とは、見返りを前提としない、ことばやおこないのやりとりだ。まちがっているかもしれないけれど、そういう一面があると僕は思う。

ものまねをする人は、オリジナルとなる人のことをよく見ている。そのことばやおこないをよく観察し、自分のからだを使ってオリジナルの人を表現する。

芸は、お金の見返りを前提とした商業である、という側面もある。その前提がチラつくような芸に出会うと、僕は気持ちが萎えてしまう。ファッションみたいな芸だな、と思う。表面的な飾りの部分だけが見えていて、「愛」の所在がわからないのだ。こういうものが売れている流れがあるから、それに乗っかって自分たちも儲けようという、「儲けの手段の実践」のように感じる「芸ごと」が時折目につく。

お金儲けは悪くない。むしろ守ったり攻めたり、大事にしたいことのために必要なものである。お金を「愛」のために使いたくて儲ける、というのが健やかな人間の心なんじゃないかと思う。ただお金を稼ぐという見栄だったり、そのお金をつぎ込んで見栄そのものを買い集め、自分の身のまわりを埋め尽くす。それは、お商売のほんとうの目的を勘違いしているように思える。利益をあげることの目的も、自分を含めた「集合体としての人」を敬い、重んじることがいちばん奥にあるんじゃないだろうか。お寺のお堂に安置された、仏さまの像みたいに。

愛とは見返りを前提としない、ことばやおこないのやりとりである。この一文には、見返りを求めるのが本質だ、という反論が予想される。

僕は思う。

見返りというのは、自分だけに返ってくるものじゃない。

自分を含めた集合体に返ってくることばやおこないが、のぞましものなんじゃないだろうか。

先ほどの一文を言い直してみる。

愛とは、自分を含めた集合体への見返りを重んじた、ことばやおこないのやりとりである。


(ちょっとごてごてしてるな…伝わりにくいか…)


「やりとり」というところにキモがあるよう思う。

発すること、受けること。

このバランスを見て、いつも姿勢を変えたり直したりできる、平衡感覚。

人生は、平均台の上を歩くようなものである。