思考は、言葉を用いることが必須ではないはず。
僕の祖父はたいへん無口な人だった。祖父が言葉を発しているところの記憶が、僕にはほとんどない。
言葉を発さないからといって、考えていないことにはならないと思う。
言葉を用いない思考というのは、どういうものだろう。前後の因果関係を持った映像が、頭の中で再生されるような感覚だろうか。
記憶というのは言葉によって蓄積されるわけでは決してない。いろんな匂い、音、触覚的体験をあたまのなかにとどめておくことができる。時間が経つにつれて、薄れていってしまうものもあるけれど。
言葉というのは記号だともいえる。ひとつひとつの記号を、実態のあるものに置き換えて理解したとき、はじめて言葉は意味をなす。
文章を読んだり書いたりしているときも、その「実態のあるもの」の再生によって、記号に込められた情報がひらかれる。
言葉によらない思考とは、この置き換えと再生のプロセスが抜け落ちたものだと思えば良さそうだ。なんだ、わざわざ言葉に置き換えたりするのがばかばかしくさえ思えてくる。
目の前にあるものが、100のことを伝える。
識字による情報の伝達は、人の長い歴史のなかではまだまだごく最近はじまったことだ。
像だとか画だとかで、宗教を伝えようとした。そうした痕跡を示す、実態ある貴重なものが現代にも残っていて、中には展示されて鑑賞したりできるものもある。
自転車屋だった祖父が、狭くてごみごみした家の中で、ケケッと笑う。言葉を発するところの記憶はないけれど、祖父の笑顔の記憶はちゃんと僕の中に残っている。
じいちゃん、何考えてたんだろな。