積み木あそび

テーマを絞った街歩きと、人だかりを避ける僕。


街というのは、住んでいると見慣れてしまう。


見慣れてしまうと、スルーしてしまう。


そこにあるものは、どんなものでもたくさんの要素を含んでいる。たくさんの要素の集合体であるひとつひとつを、いくつもいくつもスルーしながら街を歩いていることになる。


なにに関心がうまれるか、ということは行動の動機そのものである。


仕事や毎日の生活で、なにか解決したいことがあると、その人の目は自然とそのことに関連がありそうなものに向くようになる。


仕事で「いい人」を探していたら、どんな場所にどんな人が現れているかとか、どんな人がどんな本を書いているだとか、自然と情報を集めるようになる。


洗面所でブヨブヨになった石けんをどうにかしたいと思ったら、いいトレイを探そうとするだろう。石けんトレイくらい最初から絞り込まれていると、解決も早いだろう。現実に存在する問題というのは、すべてがそんなに単純ではない。問題の存在は漠然と感じてはいても、どうも焦点が合わないとか、そもそも問題の存在に気づくことなくスルーしてしまい、その日常に慣れてしまう。


この、慣れてスルーする機能は多くの人に備わっている。複雑すぎる情報の入り組みから人を解放し、思考を単純化する省エネ機構なのかもしれない。確かにムダなエネルギーの節約が必要になるときもあるだろう。節約したエネルギーを何かを別のことに充てたい場合だ。


人だかりがさらなる人だかりを呼ぶのも、この機構がはたらいている証拠かもしれない。すでに対象物を認知し、足を止めるという行動を選んだ人が先にいることで、自分も失敗することなく、エネルギーを省いて安心して足を止めることができる。そんな道理を思う。


僕はこの多くの人が備えた省エネ機構にすこし欠陥があるらしい。


人がたかっている場所は避けたくなる。そうした場面を見かけると、違和感を感じる。人が集って和をなすのに、人の集いを見て違和感を感じるなんて、僕は言葉の使い方を間違っているのだろうか。どうも僕は真っ先に、人だかりの中心に「扇動」といった特定の誰かの意思の有無を勘ぐってしまう。あおっているわけではないにしても、なにか判断を人任せにする心理にもとづいて大きくなった人だかりに、僕は警戒心を持っているようである。


ただの「人だかり」と、「人のつどい」は、個々の能動性に違いがあるように思う。


一人一人がなにかを解決したい、変えてみたいといった動機をもって集うのと、変革や改善、なにかの解決を放棄して対象に「たかる」のとでは、「人のあつまり」という表面は似ていても、まったく異質なものなんじゃないだろうか。


僕が違和感を感じるのは、そこに根ざした人間の心理によるのかもしれない。


一方で、表面にあらわれることとは、そのものの本質のあらわれであるとも思う。


「人のあつまり」という表面が似ている以上、実は本質的にさほど違いのあるものではないのかも、とも思い直す。


自分で積み上げた積み木を自分で蹴散らすような思考だ。道すじも何も残らない。僕の頭の中にだけ、ひこうき雲みたいにしばらく残っては消えてしまうのか。


複雑だと思って見れば、複雑だ。


単純だと思って見れば、単純だ。


人工的な見た目の装いの奥に、そのまんまの「人」がいる。