史実にもとづくフィクションです。

女性の友だちに、付き合っている恋人の話をしてもらうと、たいてい、みみっちくて理屈っぽい男性像が浮かび上がってくる。

僕はそれらの男性たちに実際に会ったことがなく、話だけが手がかりだ。

女性が自分の口で再現してみせる彼氏のせりふなんかは、たいていどこか理論家めいている。

不思議なものである。

その場に本人がいない状況でそうした話をしてもらうせいか、ちょっとした不満や疑問に思っていることなんかが吐露されることも多い。

女性の当事者によって削り出されるそれらの男性像は、どこか似通っている。

不思議なものだ。

まさか僕が会ったことがないからといって、同一人物じゃないよな。これまでに僕にそうした話を語ってくれた女性たちはそれぞれ、接点のなさそうなばらばらのコミュニティに生きている。もしそうだったら、驚愕に震え上がるほどのミステリィである。おそろしいプレイボーイがいたもんだ。



歴史上の人物というのは、たいてい亡くなっていて会えない。

どんなときにどんな決断をした、というような史実が残されていたりするけれど、実際どんな言葉、態度を用いて歴史が動かされたのか、映像や音声で残されているわけでもないし、わからないことも多い。用いた「せりふ」は聞き書きで残されていることもあるかもしれないが、どれくらいのスピードでその歴史が動いたのか、という時間の流れは、想像するしかない。

たとえば少数の軍勢が敵の本拠地に夜明け前に忍び込み、朝日が昇る頃には占拠を完了した、といわれる史実があったとする。現在の時間に直すと3時間程度のできごとだったと予想されるとして、残された情報、記録によって、そのときのことをまるまる3時間かけて想像したり追体験するのは難しい。


前の話に戻ると、女性たちが語れるのは、女性たちの目に映った恋人のごく一部のことだけだ。彼女たちが観察しきれなかったことや、知っていても伝えきれなかったことは割愛される。つながっていない線と線の切れ目は、なんとなく前後の脈絡、話の動線から推しはかり、聞き手が適当なカーブをあてはめて補うしかない。

このカーブがおもしろい。

聞き手の中で、それぞれの妄想キャラクターがつくられる。それは、語られる対象となった実際の人物とも違う、もはやフィクションの登場人物である。

世の人の頭の中の「織田信長」なんて、一体何万通りあるのだろう。史実をもとにして創作されたものしか材料がなかったりもして、びっくりするようなオリジナルとのかい離が生まれていそうなものである。

「俺、そんなん?」

僕の頭の中の信長が嘆く。

あの世の信長は、どう思うだろうか。