人は、見た目にあらわれる。
なんでその服を着たのか。
なんでそんなふるまいをするのか。
なんでその道をえらんだのか。
ぜんぶその人となり、である。
少しでもはだかの自分でいるために着る服もあれば、どうにかしてコンプレックスを隠そうとまとう服もある。
特定の誰かに対峙するために見た目をよそおうこともあるし、広範囲の集団の中に出ていくための場合もある。
わたしは場合によってそんな使い分けをしません、という主張ともとれるよそおいもある。
主張というよりは、ただの放棄もあるだろう。
何に起因してその人の見た目がよそおわれているかを観察するのは、おもしろい。
昨日、僕は中学校にギターを教えに行った。
2時間があっという間に過ぎて、ギターを媒体にとても良い交流ができた。最後にお弁当を一緒に食べたのだけれど、教えている最中は気づかなかった、かれらのよそおいが目に入ってきた。
みんな基本的には同じ制服をまとっているのだけれど、ひとりひとり、少しずつ違う。ブレザーを脱ぐか、着るか。ネクタイ・リボンを着用するか、外すか。スカートやズボンの位置はどうか。靴下の長さ、色、材質はどうか。タイツのようなものをはいている子もいた。
持ちものだってその人のよそおいに含まれる。
おかあさんの趣味を想像させるお弁当袋を傍らに置いて食事する男子生徒。
我が子の様子を見に訪ねてくる保護者もいた。地域に開かれた、イベントの日だったのだ。
どんな人とかかわるかも、あけっぴろげにさらすか、よそおうか、自分でコントロールできる範囲もある。人間関係も、よそおいに含まれる。
想像をつらねるほどに、つくづくよそおいはその人そのものであることに思い至る。
そういえば僕はどんなよそおいをしていたっけ。
黒くてまあるい光を反射する、ピアノのふたに映った僕がいた。