Windy Valley

ひとに会うこと。

自分はつくづく、ひとりぶんしか生きられない。からだがいくつもあったら、なんてたとえをするけれど、ほんとうのところ、からだがいくつもあったらとても管理しきれないだろう。

ひとりぶんしか生きられないけれど、ひとはひとに会える。

べつのからだ、目、あたまを持って、べつべつに生きてきたひとに会える。

べつの個体として、共通の世界をみんなが歩いている。

それぞれが見たもの聞いたもの、それに基づいて築いた「個体」があって、その個体どうしが共通の畳の上やタイルの上や、草むらの上や砂浜や、ときに会議室で、ときにベッドで、雲の上の飛行機で、異国の植物に囲まれたホテルのロビーで、命がやりとりされる自然の中で、ぼくらは出会える。

生きていくなかで、ひょっとしたら別の次元の世界を行き来したりすることもあるのかもしれないが、少なくとも会っているときは同じ次元を共有できる。

それぞれが歩いて回って築いた、世界はこんなだという認識を持ち寄って重ね合わせると、そうそうこんなだよねなんて言い合えて、やっぱり同じ世界を生きているんだと実感したりする。ここのところはこう尖って突き出して、このあたりは似たものが集まっているから平坦に見えていて…そうそう、世界はだいたいこんなふう。そんなふうに持ち寄って、話ができる。

観測が鋭い人もいれば、観測が広い人もいる。

お互いの世界を付き合わせれば、かならずそれぞれの「訛り」がわかる。

話し合ったり心を通わせるうちに、なんとなくそれはここの部分のことだろうという認識が持てると、お互いの世界の雲が晴れ上がる。

ひととひとが会うことで、気圧の差でも生じるかのようだ。

砂の積もった谷間にも、ひゅるり、さんわり、風が吹く。