気やすめを口にする

気やすめがしたいとはなるほど、気をやすめたいのである。

気がやすまっていないから気やすめがしたくなる。

自分が納得して気がやすまるのなら、気やすめをすればいい。

僕らは気がやすまっていない原因をさがす。

足りていないのは栄養だろうか。

はたまた教養か。

純粋に休養が足りないのかもしれない。

その場合は素直に休めばそれでいい。

そうはいっても暇がない、という叫びが聞こえてきそうである。

そこで気やすめをすることになる。

これは堂々巡りだろうか?


①気がやすまらない

②原因をさがす

③原因をつぶす

④「原因つぶし」に「休養」がうばわれる

⑤(①)気がやすまらない


気がやすまらないのは、休養が足りないからだ。

…といっていいのだろうか。

ほんとうにただ気がやすまっていないだけの場合は、③で完結する。

問題は、「気をやすめる」必要と、「からだをやすめる(休養をとる)」必要との取り違えにあるのかもしれない。

休む暇がない、といって気やすめをするわずかな「隙間」を休養にあてれば済む場合も考えられる。

じつは「休む暇がない」という前提も疑ってみる価値があるように思う。

ほんとうに深刻に、切迫した事実として休みがとれないでいる場合もなかにはあるかもしれないが、その状態を続けることでより深刻な状態を招くかもしれないことを考えに入れてほしい。

少し休むことで長い期間のダウンを回避できるとしたら、どちらが自分と他人にとって賢い選択か、迷うことはない。

それでもなお休めないという結論に達するような場合は、気やすめによる「原因つぶし」で完結できているのかもしれない。

口では「休めない、休みたい」をつぶやくけれど、いま以上に休むことを必要としない体力を兼ね備えている場合もある。

そういう人にとっては、「休めない、休みたい」を口にすること自体が気やすめになっているのだろう。

気やすめも休養も必要としないかのように、無尽蔵なエネルギーを感じさせる太陽みたい人もたまにいる。

僕はといえば、気やすめと休養に励む毎日である。

…と口にすることが僕の気やすめである。

(ちゃんと休んだほうがいいかもしれない)