セルフカバーのおかしみ

バンドにおいて誰かのコピーをやる、といったときには、オリジナルとなる本人たちの演奏をそっくり真似る。

そのクオリティの良し悪しを総合的に楽しむのが、コピーバンドの魅力かもしれない。

基準となる「オリジナル」をみんなが知っていれば、やる方も聴く方も楽しい。上手いか下手かも飛び越えて、オリジナルへの愛着をみんなで共有できる。「ヘタだねぇ〜!」といって喜び合っている演者とお客さんという図式さえ頭に浮かんでくる。

コピーと似て非なる「カバー」という言葉も使われる。これは僕の解釈だけれど、オリジナルの表現に近づけることを第一としない。むしろいかに崩すかに妙がある、とする価値観もある。オリジナルの脚本、台本、骨格を用いて自由に肉付けする。それがカバーである。

コピーやカバーのことを考えると、クラシック音楽のことも頭に浮かぶ。

クラシック音楽は譜面に基づいた演奏をする。

記されていることをいかに解釈し、表現するかといったことが常につきまとう。その表現、解釈に妙がある。

これは、コピーともカバーとも異なる。

バンドの発表は、楽譜をもってされるわけではない。レコーディングされたパフォーマンスがあれば、元となる脚本、台本、楽譜のようなものは実在しなくていい。

人気のあるバンドや歌手のものは、あとから出版社がバンドスコアを出したりするけれど、オリジナルが楽譜をもって発表したわけではないので、あれらはみな「聞き取り(耳コピ)」である。

そのバンドスコアを頼りにコピーバンドをやったりすると「耳コピのコピー」みたいなことになったりする。君の「耳」はどこへいった?なんて言ってやりたくなるけれど、僕にはそんな口はない。

クラシックの話に戻ると、楽譜にはすべてが書いてあるわけではない。明確な音程が記されていれば気軽に間違うわけにはいかないけれど、テンポなんかが「言葉」で表記されていたりする。外国語で「歩くようなはやさで」なんて書かれていたりして、それってどんなはやさ?という問いになる。作者が死んでいたりすると、もう永遠の議題に等しいだろう。ヘタしたら生きていても、「いや、おまえのこの作品はそうじゃない」という熱い人も出てくるかもしれない。僕が書いたんだけどな…なんて内心思う作曲家はそういう齟齬を避けてか、BPM(1分間に打つ拍)で厳密に記すこともあるようだ。(そのへんの話に詳しい人は、僕より他にいる)

コピーもカバーもクラシックの表現も、まずオリジナルが先にある。

自分で作ったものを、自分でコピー、カバー、表現する楽しみもある。こればっかりは、作らないことには味わえない。