うつくしい貸し借り

荒れていても豊穣でも、自分の土地は自分の土地だ。

種を蒔かないと何も出ない。

種じゃなくても、分けてもらったり借りてきた苗を植えてもいい。

自分で蒔かないと何も出ないと言っておきながら、風に乗ってやってきた雑多な植物はすぐに繁茂する。

子どもなんかは自分で何かを植える前に、まずそうやって風に乗ってきたり大人に勝手に植えつけられたりしながら、自我の芽生えや思春期を迎えて初めてまじまじと自分の土地を見つめる。

こんな庭は美しくないと思う子もいるだろうし、中には何の疑問も持たない子もいるだろう。

他者の手によって整えられた状態があたり前にあると、その状態が保たれなくなって初めて自分の土地の存在、その在り様に気付く人もいるだろう。

自分の庭の草に興味を持つことから、外の世界への関心が高まる。他人の庭から何かを学んだりもする。


ところで、林業は木を植えてから材が得られる大きさになるまで、70年かかるらしい。

宇宙開発事業なんかも長期に渡り、自分の世代だけでは完結しないという。

完結というのもおかしな話で、ずっと境目なく世界は流動し続けている。

自然に現れた「ふし目」のような部分で意図をもって区切りとし、ひとまずそれを「完結」と呼ぶだけの話である。

自分の庭はさも何もない状態から始まったかのように捉える論じ方もあるかもしれないが、紛れもなくひと続きの歴史の中の一部分を僕らは「借りて」いるに過ぎない。

自分の土地だと思っている場所も、歴代の先輩たちが数え切れず交差し、生まれ、息絶えては堆積してきた。

僕らの土壌は、そうして出来ている。

その恵みにあやかっている。

「土地」を売買したりなんてのは、そういう観点で眺めるとなんともおかしな行為に思えて仕方ない。

値段も高いし、一世一代の買い物のように思われがちだけど、人間だけの決まりごとに則った、すごく表層的なことでしかない。

長い目でみたら、まだまだごく新しい取り組みだといえる。日々トラブルも起きるし、それによって決まりごとは改められたりもする。

「月の土地」が10年くらい前に売り出されていたことがあった。空に浮かんで見える、地球の衛星のアレである。

今も売り出され続けているのかどうかは知らない。

僕はとある人がプレゼントしてくれて、あの月のわずかな範囲の土地を持っている(ことになっている)(らしい)。1畳程度かそれ以下か、忘れてしまったけど確か2000円くらいだったそうだ。

現状僕はその土地を活用して何かをしたりなんてことはできない。

月の土地を売った人が、ただ一方的に儲けただけである。

月を見上げたり思い出した時に、自分の土地があそこにあるのかぁ、と物思いにふける効果のために払ったお金だったと思うしかない。

それをプレゼントしてくれた人は当時付き合っていた恋人だったし、ロマンチックで洒落たプレゼントだと思った。2000円としてはそれだけでも十分だったかもしれない。

月だって地球だって、別に誰のものでもない。

地表で微細は細胞が騒ぎ回っている、くらいなものだろう。

環境や資源のことが問題にされて深刻に語られたりするけど、あくまで「人間(および動植物)」にとって深刻かもしれないというだけだ。

地球にしてみれば、表面の生物が絶滅したくらいでは、ちょっとお肌が乾燥してきたわぁ〜、くらいのことかもしれない。

地球というくくりだって、日本というくくりだって、たまたま自然に現れた木目、ふし目みたいなものである。

それらを境目として認識し、はまりこんで「ここからここまでが自分の土地」だとか言い合っているに過ぎない。

僕らは、先輩たちが貸してくれた土地にいる。

そして、未来の後輩たちにも貸すことになる。(嫌でもそうなる)

ちょっとばかり美しく、気持ちよく過ごしやすくして、この土地の貸し借りをする。

それが人間どうしの営みなのだ。