光になること

ギターを弾くときには、ギターそのものになるのがいちばんいい。

人間が楽器を支配しているというのはすこし違うように思う。ギターを弾くためだけに存在する、ギターと一体化した物体になるのがいちばんいい。

歌を歌うなら言葉があるから、全力でその言葉をいうためだけの物体になる。のどや声帯だけが働くのとはすこし違う。コントロールするという意識より、されるくらいがちょうどいい。

そうやって自分の全身にも音が響いて、やっと外の世界も震えだす。

ひとつのステージをやるならば、ステージそのものになるのがいちばんいい。部屋の空気にだってなれるだろう。全身で空気になってはじめて、観る人に吸い込んで取り入れてもらえる。そうなったらもう、しめたものである。

音楽以外でも各分野で活躍する人の取り組む様子を「呼吸するように〇〇する」なんて表現する。

絵を描くでも文章を書くでもいい。

スポーツを極めた人の流麗な動きも、かぎりなく「呼吸」に近い。しようとしなくても「呼吸」になっている。自発的な呼吸は、生きている証でもある。

あとは外からの刺激に反応し、脈動でも打てばいい。それだけでじゅうぶん生きている。

何かをやろうとするのは不自然だ。生きようとしなくても生きられる。

ぼくはいま、文章そのものになろうとしている。なろうとしているから、まだ駄目だ。「なにかになる」には、慣れも要る。

慣れようとしているうちに、慣れてくる。人間の持つその主体性、その可能性を信じて試すことに、光をみる。光っている人は、まわりの刺激になるだろう。与えようとしなくても与える存在になるということだ。