ナワバリ借金と犬のそれ

時間に追われる感覚ってなんなのだろう。

どんなに引く手あまたの売れっ子になったとしても、時間は等しくみんなにある。

予定したことが消化されるかどうかが、些細なことに左右されかねないヒヤヒヤ状態にあると、さぞ不安になることだろう。

電車が一本遅れただけで鉄道会社にクレームが殺到する。みんながアテにしていることの表れだ。電車が遅れることも、ある程度は自己責任の範囲内である。他人に頼っているぶん、他人の都合・不都合も自分ごととしてとらえなければならない。


農林水産省が発表している、「都道府県別食料自給率」。

これによると、東京都の食料自給率はカロリーベースで「1%」とある。(平成27年度、概算値)
東京、神奈川、大阪は目立って低い。人口が集中する地域の食料生産を、いかに地方や諸外国が担っているかがわかる。

人間は誰しも、生きるために「一定範囲のスペース」を必要とする。物理的に自分が存在するための体ひとつぶんのスペースに始まり、生活空間、居住空間、健康でいられるだけの活動ができるスペース。そして自分が生きていかれるだけの食べ物が得られる範囲のスペースがいる。

都会での生活は、その「食べ物を得るためのスペース」を地方や外国に借りている状態に等しい。その代わりに、高層ビルにオフィスを構え、コンクリートの狭い空間にこぞって詰めかけ、なんらかの事業に従事する。そうして得られた収益で、生きていくための食料を方々から買い集めている。

人類が狩猟・採集で生きていた時代には、「ナワバリ」があっただろう。動植物を自分の生活圏で取り尽くしてしまっては、食いあぶれてしまう。生命を維持するために必要なだけの食料が得られる一定範囲、すなわち「ナワバリ」を確保しなければならない。

自分が生きていくために必要なものがある範囲が目の届くところにあれば、その様子を気にかけるだろう。どこにどれだけの資源があるのか、一定の期間に渡ってどんな調子で移ろっているか、把握して狩猟・採集の見通しを立てておく必要がある。

この「ナワバリ」を地方や外国の「見えないところ」に借りてしまっている現代の都会人たちは、この感覚がマヒしてしまう。

機能が集約された都市部で、より高い効率で働き、お金をかせぐことにやっきになる。そのお金でますますいろんなものを買い集めるほどに、外へのナワバリの「借り」はますます広がる。

時間に追われる感覚の正体って、この「ナワバリ借金」の大きさに比例するものなんじゃないかと、僕は思う。

お金は、なんにでも換えられる。

その「なんにでも換えられる性質」が高まるほどに、数字の羅列である額面と引き換えにされるものの実態が、個人の想像の及ぶ範囲から遠のいていく。

現代における都会人は、もっと「ナワバリ意識」をもつべきなのかもしれない。

その都会人に飼育されている愛玩犬たちが、せっせと電信柱におしっこをかけて回る。飼い主はそれにせっせとペットボトルで水をかけている。ビルや住宅の谷間に作られた、人工の緑がたたずむ公園で、よく目にする構図である。