アンシンのいどころ

人って、自分が理解されやすそうな環境を選んで集う習性があるようである。


これはよく「類は友を呼ぶ」という言葉で表現される。


似たような境遇を経験している人、共通の嗜好性を持つ人が集まっていそうな場所に、人は集う。


「若者の街」なんて形容される渋谷だとか原宿の路上には、やはりそうした年齢やファッションの人が溢れる。「ババ宿」なんて言われる巣鴨の地蔵通りに行けば、自認他認の見事な仕上がりのジジ、ババたちにまず間違いなく出会うだろう。


とある共通点を持った人たちの集まりによって、ある範囲の地域が活性化する。


それは同時に、その共通点を持たない人たちを排除する現象でもある。


また、消極的に取り残された人たちが残ることによって、動けなかった、動かなかったという共通点を持った人たちで地域が形成されることもある。シャッター街とか、過疎のまち、なんて表されたりもする地域が現実にたくさん現れている。


誰も呼んでなんかいないのに、同類項の集まりが自然に浮かび上がる。


「類友」の集まりで活性化した地域は良いが、同時にどこか別の場所に「地域の廃れ」をもたらしている。


どこからともなく人が集まってきているわけではない。みんな、必ずどこかからやってくる。


一見、多様性が成立して見える集団や地域がなかにはある。


老いも若きも、在住者も訪問者も、人工も自然も、うまい具合に協調を見せているような地域。


「最近は変わってしまった」と嘆く人もいるようではあるが、僕の住んでいる地域の近くだと、吉祥寺なんかは多様性のある街に見える。


この街を観察して、得られるヒントもありそうに思う。


多様性が成立している集団・地域にみられる共通点は、多様性を認める能力(感性、価値観、ほか…)を持っている人、物、場所がある、ということになるのだろうか。


自分にないものを面白がれる気持ち。


自分だけが持つものでも、受け入れてもらえる器の深さ、広さ、大きさ。


自分が受け入れてもらえないかもしれないとか、浮いたり悪目立ちしてしまうかもしれないと不安にさせるような場所には、なかなか人は立ち入ることができない。


「安心して居られる場所」というのは、人が生きていくうえで不可欠なものなのだろう。