とある公共事業に従事している。
僕は市の嘱託職員なのだ。
公の機関が公に向けた発言や発表をするときは、決まったことや事実のみで内容が構成される。
…はずである。
少なくともそのような心がけみたいなものは存在する。
自分がそっち側(公)に立ってみると、そう感じる。
「カタい。融通がきかない」とか、「華がない。魅力を感じない」
というのは、僕自身も「お役所仕事」に対して常々抱いてきたイメージである。
従事してみた今でも、もちろんそうした側面を感じている。
そうしたイメージは、「事実や決めたこと、決まったことのみに基づいて仕事をする」という方針に根差すところからやってくるもののように思う。
「言えることだけを言う」
「やれることだけをやる」
のである。
自分の個人的な主観や感情、偏見、主義主張を持ち込む場ではないのである。
もちろんそうした「個」を踏まえたり、参考にしたりヒントを得たりすることは有効である。
この方針にのっとって仕事をすることは、それまで好き勝手に、無責任に、それらに由来する時間的な自由を謳歌しながら生きてばかりいた僕にとって、大変な革新をもたらした。
「ああ、そういうふうに考えるのね」と、日々思うことばかりである。
ちょっとチクリと刺すようなことを吐露してみると、その「事実や決めたことに則るという方針」における、「事実(と思われること)」や「(政府が)決めたこと」自体が、疑いたくなるようなことはもちろんある。
それって正しいの?
ほんとに意味あるの?
もっと他にあるんじゃない?
そんな風に思えてしまうことであっても、今日の仕事を「ひとまずその方針の根拠とするものに則って」やるのである。
現場の窓口である僕らが、「決められたこと」に反した主張を持った市民に出くわしても、そしてその市民の主張にいくら共感しても、「おっしゃる通りですね」と相槌をうつことはあっても、「ではあなたのおっしゃる通りにさせていただきます」とその場で方針を変えて実行することはできない。
それをするためには、まず大元を変えなければならないのである。
その場での歯がゆさを味わいながら、様々な人に出会うことで、社会の末端から心の臓に向かって何かを知りたくなる。
そうして求めていく道沿いに、自分なりの「事実」が築かれていく。
誰かが後に続きたくなるような立派な道じゃない。
ただ、僕の地図には書いてある。
心の臓の所在地は、まだぼんやりとしか記されていない。
地図は新しくし続けるものだ。
古地図は、そのためのヒントにはなるだろう。
何が昔と違うのか。
それを観測する「眼」は、ひとりひとりが持っている。
社会とは、共有された最新の地図のようなものかもしれない。
共有しきれていないものは反映されていないから、社会に取り残されてしまったり、はみ出したままでいる人がいる。
誰かがとあることについて「知った」だけでは、「共有できた」とはいえない。
「最新」のはずの地図が、いかに「最新」でないか。
その差異にこそ、僕らの課題があるのだろう。