幸せのソースと連載マンガ

長く連載している漫画の1巻を見ると、最新巻のものとだいぶ絵が違うことがある。


連載が続くにつれて、絵のタッチが洗練されるのだろう。


線がシャープになり、対比がはっきりして見えるようになるケースが多いように思う。無駄な線は淘汰される。曲線の多くは流れるような滑らかな直線(真の直線ではない)に置き換えられる。


これらは僕のよく知っている少年漫画に多く見られる特徴である。


少女誌に掲載される作品はどうなのだろう。あまり読んだことがなく、経験がないためわからない。もともと曲線が多く、線や面の境界変化が淡く繊細なイメージがある。連載が長くなって作家が描き慣れてくると、これらの特徴が深化するのだろうか。


僕は長篇漫画を描いたことがないので、自分の絵がどう変化するかわからない。絵を描くこと自体の頻度が昔より減っているため、下手になっているかもしれない。ラフでテキトーな絵しか描けなくなっているような気もする。


わかるのは、自分の作った音楽のことだ。


僕は曲を作って、自分で歌ったり演奏したり、録音を残している。


自分が作曲や録音を始めたばかりの頃の作品には、壮重な凝ったアレンジのものがあったことを思い出す。


今ももちろんそうした作品を作らないわけではないが、作りかたそのものを変えた部分があるのでいっしょくたに語ることはできない。


昔は、ひとつひとつのパートを細かく分けて、同一のパートにおけるひとつの曲の中でも、すべての部分にわたって意図した通りのアレンジ、ニュアンスになるように細かくやり直しを繰り返しながら、トンカチを表から裏から振り続けるような作業をしていた。


今はというと、はじめっからおわりまで可能な限りいっぺんにやってしまう。ライブのステージの上にいる時と同じようなことを録音に残すようにしている。気に入らなければ、最初から最後まで何度でもやり直す。


ライブやコンサートをまるごと収録した録音作品なら当たり前のことだけど、それをわざわざ自分ひとりで部屋にこもってやっている。


レコーディングの「どこからでもやり直しが効く」という利点を逆手にとっているようなものである。


点描画なら点描画なりの。


油絵なら油絵の。


モザイク画ならモザイク画の。


コラージュならコラージュの。


手法が作品の質感に影響を与える。


その影響がいかに表れるか、自分をソースにしていろいろやってみるのが面白い。


絵も音楽も、なんでもそうだろう。


シコシコと細部をツギハギしながらやり直し続けるような気力が今の僕にはないが、最初から最後までをぶっ通しでやり、気に入るまで全部をやり直し続けるなんて気力は、若い時の僕には間違いなくなかっただろう。


そんな「考えられない」ことを、今の自分も昔の自分もお互いやってのけている。


何かを記録して残しておくと、そんなことが見えてくる。