「はっぱ」

本質的な相互理解なんて、あるのだろうか。


たまにそんなことについて考えることがある。


自分はこの世で1人だけだ。


限りなく近いものを共有したり共感したりすることはできるかもしれない。


同じ打上げ花火を隣の人と見たとしても、そこには体ひとつぶんの「ズレ」がある。


「同じ打上げ花火をそれぞれの観測点から体験した」としかいいようがない。


手をつないだとしても、僕はあなたになれないし、あなたは僕じゃない。



ところで僕には14ヶ月の息子がいる。


彼の発語がいくつかあって、そのうちのひとつに「はっぱ」がある。


おおむね、植物全般を指して「はっぱ」と認知しているように観察される。


猫じゃらしを見ても「はっぱ」だし、背の低い小さなススキのような穂(名前がわからない)を見ても「はっぱ」だ。


一度、街で居酒屋さんの前に飾られている笹を見て息子が「はっぱ」と言ったことがあった。


それを受けて、僕は確か「あれは、笹だね」と言って聞かせた。


猫じゃらしや何かの穂を見て「はっぱ」と発する息子に、僕はあまり「それは猫じゃらし」などと補足した記憶がない。特になにか意図があってそうしてきたわけじゃない。なんとなく植物全般を指して彼が「はっぱ」と表現しているように思うので、いつも「そうだね、うん、はっぱだ」といった具合に相槌を打っていた。対象が猫じゃらしの時でもだ。


なのに、なぜかそれが「笹」だったときに、僕は自然に「はっぱね。うん、そうだね、あれは笹だ」と補足していた。「笹」のときは指摘したのに、猫じゃらしや小さな穂のときは指摘しなかった自分に気付いて、その違いは一体なんなのだろうと、なにか不思議な気持ちになった。「笹」だけ植物の中で特別なものかのような認識を、僕は持っているのだろうか。


笹や竹は、ちょっとユニークだ。ふしがあって中は空洞だし、他の植物とちょっと違って見えなくもない。


この国には「七夕」という風習があって、願いを書いた短冊をぶら下げたりする。居酒屋さんの前で笹を見たのは七夕をとっくに過ぎた頃だったけど、人為的に飾られた笹を見ると、反射的に七夕を思い出す人もいるのではないだろうか。


僕は七夕に特別な思いがあるわけじゃない。この国で育ってきて、短冊を携えて掲げられた笹の姿をいくつも見てきた。


植物だとか動物だとか、言葉は何かを分けたり、区別するものである。


学問的な分類の仕方もあるけれど、ひとりひとりが勝手に抱く認識によって日々世界中で「言葉」が扱われている。


「言葉」も「はっぱ」の一種かもしれない。


それは「はっぱ」だ、それは「はっぱ」じゃない、といった議論にエネルギーを費やし、分かり合えた気になったり、どこまでいっても合意に至らないこともある。


それが「はっぱ」か「はっぱ」じゃないかを問題にすること自体が、ちょっとズレていることもある。


その「ズレ」を、「物理的な距離のズレ」に見合うくらいにすり合わせることならできる。


隣の人と同じ花火を見上げたときの、体ひとつぶん程度のズレである。